2019.07.23

愛甲猛が証言。球界の革命児が
オヤジと呼んだ本物のフィクサーの存在

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Kyodo News

「僕の親父代わりだった人が幅敏宏(はば・としひろ)さんという方で、プリンスホテルの総支配人だったんです。初めて会った時にもらった名刺にそう書いてあって、『オレが今、担当しているのが池袋、新宿、高輪、品川、赤坂だ』って聞きました。その関係で、池袋のプリンスホテルに遊びに行ったとき、根本さんが来られて、初めてお会いして。もうロッテに入ったあとだったと思いますが、少し話もしました。当時はまだ、根本さんといえば西武の監督をやっている人、というイメージしかなかったんですけどね」

 神奈川の逗子に生まれた愛甲は、5歳の時に父・勇夫と別れている。勇夫は大洋漁業で鯨捕りをしていたが、鯨漁が不景気になって退職。代わりに始めた運送業も破綻すると、妻とふたりの子ども、そしてトラック数台分の借金を残し、「女をつくって」家を出ていってしまった。

 ただ、スポーツ万能だった勇夫は大洋漁業の社内野球で活躍し、大洋(現・DeNA)球団のスカウトも視察に来たほど。愛甲が横浜高に進学すると、父を知る人から「やっぱり、猛は勇夫の子だねえ」と言われたそうだが、「親父代わりの人」とはどういう縁だったのか。

「高校3年、夏の甲子園が終わって、地元に帰ってきてからです。家に電話がかかってきまして、『一度、会いたい。メシを食おう』ということで。どういう人なのか、わからなかったんですけど、池袋のプリンスに呼ばれて、一緒に食事をして。『まあ、泊まっていきな』と部屋まで用意してくれて、というのが最初の出会いです。それで聞いてみたら、その人の自宅が鎌倉逗子ハイランドっていう西武グループが造成した高級住宅地にあって、僕の家から歩いて10分ぐらいのところだったんです。『近いから一緒に帰ろう』って、タクシーで一緒に帰ったこともありました」

 西武グループのプリンスホテルは、1978年9月に硬式野球部の結成を発表。翌79年の日本社会人野球協会(現・日本野球連盟)加盟に向けて、プロ球団も狙っていたドラフト上位指名候補を獲得していく。代表的な一期生は内野手の石毛宏典(駒澤大)、捕手の中尾孝義(専修大)、堀場秀孝(慶應大)で、総勢30名の大学生、高校生が集結した(3回目の入社内定発表時)。