愛甲猛が証言。球界の革命児がオヤジと呼んだ本物のフィクサーの存在 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Kyodo News

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「投げられないことはないですよ。投げろって言われれば、投げられますけど......」

「じゃあ、うちに来いよ、お前。(投手と野手の)両方でやれ」

「ほんとですか? 引っ張ってくださいよ」

 投手として入団した愛甲が野手に転向して以来、10年が経過していた。88年から一塁のレギュラーに定着して外野もこなし、パ・リーグ記録(当時)の535試合連続フルイニング出場も達成。節目の通算1000本安打も記録したばかりだったから、さすがに"二刀流"に現実味はなかった。

 それでも、トレード期限の6月30日(当時)が迫っていただけに、単なる冗談では片付けられない要請とも思えた。プロ14年目を迎えてロッテの選手会長に就任していた愛甲自身、チームに不満を持っている時でもあったし、そもそも根本が現場の指揮官という枠におさまらない野球人であることも知っていた。

 ダイエー以前、根本は広島、クラウンライター、西武で監督を務め、各球団で実質的なGM(ゼネラルマネージャー)としても手腕を発揮。75年に初優勝した"赤ヘル"カープの基礎を固め、80年代から90年代にかけての西武黄金期を築いている。その辣腕ぶりから"トレードの名人"と称され、新人獲得で裏技を駆使したことから"球界の寝業師"と呼ばれた。

ヘッドハンティングされる形で招かれたダイエーでは、監督に加えて代表取締役専務、球団本部長を兼務。グラウンドでの指揮からチーム編成、フロント業務まで掌握する立場にあった。1999年4月に急逝したが、同年1月から球団社長に就任していた。

 愛甲自身、その時点までの根本の実績を把握していたとはいえ、冗談か否かは別にして、根本が気軽に声をかけるような他球団の選手は滅多にいなかったはず。まして、過去に根本監督のチームでプレーした経験もない。なぜ、そのような関係性ができていたのか。愛甲に聞いた。

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