2019.06.17

草野球の魚屋さんからプロの大エースに。
土橋正幸が歩んだ下町ドリーム

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「あの頃はまだテレビもない、なんかやるったら野球なんですよ。で、水泳はね、気合い入れてやってないと竹竿でぶん殴られたり……。それで野球をやったんだけど、幕張にいる頃から、都市対抗、親と後楽園に観に来てたんです。当時の藤倉電線とか大昭和製紙とか強いとこが好きでね。だから、子どもの頃から見よう見まねで誰にも教わんないんだけど、キャッチボールだけは上手にできたんです」

 幸いにして、父親の弟、土橋さんにとっては叔父が運動具メーカーに勤めていた関係で、疎開中でも革製のキャッチャーミットが手に入った。当時、プロ野球で捕手といえば「タイガースの土井垣武(どいがき たけし)」で、土橋という苗字にも同じ「土」があり、ミットもある。そんな単純な連想で土橋さんは捕手になり、かつて社会人野球でプレーしていたという人に誘われ、チームに入った。中学野球部ではなかった。

「草野球です。当時は台東区の上野の界隈で軟式のチームが20以上あって、春先からずっと早朝野球。うちのチームは雷門サンダースっていう名前で、選手には勤め人もいました。で、その中でうちの隣にいた2つ上の先輩、日大三高で野球やってた船戸っていう人に『おまえ球速いからね、キャッチャーよりピッチャーやれ』って言われてピッチャーになった。それでそのあと、フランス座ね」

 浅草のストリップ劇場、フランス座が野球チームを持っていて、土橋さんがそこで投げていたことは以前から知っていた。しかし雷門サンダースとの関係はわからない。

「あのとき、読売新聞が主催する23区の軟式野球の大会があったんだけど、われわれのサンダースは『エントリー費が高い』ってんで出ないことになった。そしたらフランス座の社長がね、『サンダースが出ねえなら、うちのチームを手伝ってくんねえか』と。わたしとさっき言った船戸さんと笠原っていう人、3人が呼ばれたんですよ。たぶん、サンダースがフランス座と試合をやると、勝ち負けは別にしてわたしが結構やっつけてた。それで社長が目ぇつけてたと思うんだ」

 都市対抗の補強選手のような──と相槌を打とうとしたが、話は間断なく続いた。