高津臣吾が徹底した秋山、清原対策。極意は「低く遠く、近く強く」だ (4ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

――そして、この年のシリーズ三度目の登板が、3勝3敗で迎えた第7戦。得点は4-2、8回裏途中からのマウンドでした。

高津 7回まで1点差でリードしていたときには勝っている心地はしなかったけど、8回表にうちが1点を取って、これで少しだけ「こっちに(勝利が)近づいたかな?」と感じましたね。先発の川崎の調子がよかったので、「このまま最後まで投げるのかな?」という思いもあったけど、7回途中ぐらいには僕も「いつでもいけるぞ」という状態になっていました。

――その回はピンチを背負ったものの無失点で切り抜け、いよいよ最終回のマウンドに。

高津 とにかく、「先頭を取りたい」と思っていました。この回の先頭打者・石毛(宏典)さんを打ち取れば何とかなる。そんな思いでした。石毛さんをとてもいい形でサードゴロに打ち取り、「いけるんじゃないかな?」という気にはなりましたね。石毛さんのサードゴロで、「あと2つ」、続く清原さんを三振にして、「あとひとつ」、鈴木健を三振に打ち取って「やったー!」と、心の中でカウントダウンをしていました。

――悲願の日本一の瞬間、どんなことを感じていましたか?

高津 その瞬間は「やったー!」という思いしかなかったんですけど、表彰式が終わって祝勝会のために都内のホテルに戻るバスの中で、「あの西武に勝つなんて、オレたちとんでもないことをしちゃったんだな......」って、冷静に振り返ったことを覚えています。

――あらためて、この2年間のライオンズとの日本シリーズを総括してください。

高津 その後の僕の野球人生の基盤となったのが1993年のシリーズだったと思います。さらにその基盤となったのが、シリーズに出られなかった1992年の悔しさでした。あの悔しさがあったから、1995、1997、2001年にも日本一になれたし、メジャーリーグに挑戦することにもなりました。僕にとって、西武との2年間の日本シリーズは「基礎、基盤となった2年間」でしたね。

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