近鉄で開花。ブライアントは日本で本塁打アーチストになった (2ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Kyodo News

 なぜかって、たしかに家の周りには空き地もいっぱいあったし、野球をするには困らなかった。でも、父は野球をしたことがない人で、野球にほとんど興味を持っていなかった。僕は4人兄弟の3番目で、兄弟や近所の友だちと遊びでやる野球をやれれば、それで十分だったんだ。

 子どもの頃はホームランを打つタイプじゃなかったし、ヒットか三振かというバッターだったと思う。今はホームランか三振かというバッターだけど、そう考えると、今のほうがマシだね(笑)。

 でも僕は、今も昔も三振は気にしない。今回がダメだったら、次のプレーで頑張ればいいといつも思ってきた。三振に終わったら、次はヒット。ヒットを打てたらその次はホームラン。いつもそういう気構えでいられれば、それでいいんだ。

 高校、大学と、野球とフットボールをやっていたんだけど、高校の時、野球で奨学金をもらえるまでになった。だったら、今度はいかに高い評価を受けてドラフトされるかを考えようと思った。そのために、自分の技術を磨こうと努力した。

 僕は何年もかけて自分のなかに眠る野球の才能を目覚めさせてきたんだよ。おかげでドジャースにやっと1巡目で指名されて(1980年、ドジャースから、1981年にはツインズから指名されるも、下位だったため拒否、1981年の二次ドラフトで1巡目の指名を受ける)、ラッキーだったと思っている。

 ドジャースでプレーできたことも、中日ドラゴンズから誘われたこともラッキーだった。日本に来ないかと言われたとき、これは自分に与えられたチャンスだと思った。ドラゴンズで過ごした時間は約2カ月と短かったけど、とても多くの経験を積むことができた。ドラゴンズが招いてくれたから日本に来られたわけだし、去年(1988年)、ドラゴンズの二軍でプレーしている僕を見て、近鉄バファローズが声を掛けてくれたこともラッキーだった。そう思うだろう?

 でもね、たしかに運が必要なことはある。ただ、忘れちゃいけないのは、運がよければヒットを打てることはあるけど、どうしてもヒットを打ちたいなら運に頼っちゃいけない、ということ。運は僕の人生に若干の作用しかしないし、ラッキーはいつ訪れるかもわからない。だから努力しなくちゃダメなんだ。

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