杉浦享が引退撤回でもう1年と決意。
きっかけとなった広澤克実のあのプレー

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

―― 一方の森監督はいかがですか?

杉浦 あのときは広岡監督の時代ですからね。広岡さんが最初に取り組んだのは選手たちの意識改革でした。あの頃は「酒は飲むな、白米は食べるな、タバコは吸うな、遅刻はするな」など、とにかく厳しい時代でした。そのときに森さんは、選手の部屋を回って冷蔵庫の中身をチェックするようなことをしていました。"嫌われ役"に徹していたイメージが強いですね。でも、やかんや急須に、ビールや焼酎を入れて飲んでいたんですけど(笑)。

――ちなみに、「広岡野球」はどのように見ていましたか?

杉浦 広岡さんの場合は、与えられた戦力を一度すべてリセットするんです。ポンコツをすべて解体して、部品を磨き直す。それから、あらためて組み立て直す。そんなチーム作りだったような気がしますね。でも、野村さんは土橋(正幸)さん、関根(潤三)さんが我慢して使い続けた選手たちが伸びてきた頃に、それを受け継いで、そこに「頭脳」を注入した。そんなイメージがありますね。

――1992年、そして1993年の日本シリーズはともに第7戦まで戦い、2年間のトータルで言えばスワローズもライオンズも7勝7敗でした。両チームの決着は着いたのでしょうか?

杉浦 うーん、互角でしょうね。西武はすでに完成されたチームで、一方のヤクルトは伸び盛りのチームでした。その両チームが真正面からぶつかり合って、最初は西武が勝ったけど、次の年はヤクルトが急成長して見事に勝った。やっぱり、互角だったと思います。僕自身はすでに引退を決意していたし、体もボロボロだったのであまり戦力にはなれなかったけど、野球人生最高の思い出ができました。悔いはまったくありませんが、ひとつだけ欲を言えば、あと10年遅く生まれて、古田たちと同じぐらいの年代で一緒にプレーしてみたかったですね。

3 / 3

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る