「私はセンスを鍛えます」。元ロッテ守護神が独学でフリーの指導者に (2ページ目)

  • 広尾晃●文・写真 text&photo by Hiroo Koh

 2006年の大学、社会人ドラフト4巡目で荻野はプロ入りする。24歳の時だった。

「体が小さく、力で圧倒することができなかったので、どうやって抑えようかをいつも考えていました。映像を見ながら、ここにこういうボールを投げたら、このバッターは必ずゴロを打つとか、そういうのばかり考えていました。要するに錯覚を利用するんです。

 人間は物体を見るときに、脳で見ています。脳はすぐに錯覚するんです。投手というのはその錯覚を利用します。反対にいい打者は、自分が錯覚していることに気づいて、修正できます。このことに気がついている選手は一流です。アマにはいませんでしたから、僕は錯覚を利用して社会人では結果を出していました。

 入団が決まって、キャンプ前に浦和で自主トレをしました。成瀬善久(現オリックス)がキャッチボールをしているのを見て『とんでもないヤツがいるな』と思いました。成瀬は前の年に初めて一軍に上がって5勝。球速も135キロくらいでしたが、実際に見て、キャッチボールのレベルが違い過ぎて驚きました。

 キャンプで小宮山悟さんを見たのも衝撃でした。小宮山さんはいろんな変化球を使ってかわしているイメージがあったのですが、実際には全力で腕を振っている。変化球でも全力で腕を振るから強い球がいくんです。『かわすピッチングで、プロ野球で活躍している人はひとりもいないんだ』と気づいて、『これは、今までのやり方を全部変えないと』と思いました。僕の場合、プロでは全力でいってかろうじて抑えられた。手を抜いて投げて通用するレベルではありません」

 荻野が入団した2007年、ロッテの投手陣は先発、救援ともに充実していた。先発は清水直行、小林宏之、渡辺俊介、小野晋吾、久保康友、成瀬善久の6枚。救援陣は薮田安彦、藤田宗一、小林雅英の"YFK"に、小宮山悟、高木晃次。一軍の枠はあと1つか2つだった。

「それを残りの投手全員で争って、なんとか食い込めました。8回を薮田さん、9回は小林雅さん。7回は左なら藤田さん、それ以外は僕という感じでした。

 それで2年目に抑えに回って、キャリアハイの30セーブを挙げました。でも、肩もヒジもギリギリの状態で、『痛いなぁ』という感じは常にありました。

 3年目の5月くらいに本当にヒジが痛くなって、6月か7月ぐらいからシーズン終わりまで塁間も投げられなかったのですが、痛み止めを打ちながら30試合ほど投げました。わざとタイミングを変えて投げるなど小細工もしましたが、この年が実質的に最後となりました。結局、最初の3年間で170試合を投げて、残り5年間で9試合しか投げられませんでした。でも今から思うと、その5年間の経験がめちゃくちゃ生きている」

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