ベテラン平野謙が愛のムチ。若き清原和博に「あいさつに来い」 (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

――では、仮に平野さんよりも守備率のいいライトや、もっと打率の高い二番打者がいれば、本当の黄金時代だったとお考えですか?

平野 うーん、どうでしょうね。ただ、あの当時の西武は個性的な選手が揃っていたのでお客さんは楽しかったと思うし、そういう意味では黄金時代だったのかもしれないですけど。さっきも言ったけど、選手それぞれが自分の役割をきちんとわかっていて、その役割を忠実に演じることで、チームとして機能していたんです。みんな、サインを出されなくても「次はこうすればいいんだ」と理解していました。自分の考えとベンチの考えが一致すると、失敗も少なくなるんです。

――ライオンズ投手陣の印象はいかがでしたか?

平野 この日本シリーズの印象で言えば、タケ(石井丈裕)がすごかったですよね。でも、他にも(工藤)公康だ、ナベ(渡辺久信)だ、(郭)泰源だって、いくらでもいいピッチャーがいた。「誰が一番すごいか?」って聞かれても、ひとりの名前を挙げるのは難しいぐらい、すばらしいピッチャーばかりでしたね(笑)。

ベテランとして、清原の面倒を見ていた

――1992年当時は38歳の大宮龍男さんに次ぐ、37歳でした。年長者として、ベテランとしての役割などはありましたか?

平野 年齢で言えば、僕は上から二番目だったし、外からやってきた(1987年にトレードで中日から移籍)選手だったので、逆に周りが僕に気を遣ってくれました。ただ、キヨ(清原)との接し方は自分なりに意識しましたね。いつもロッカーでは、「おいキヨ、いるんか? あいさつに来ないから、いるのかいないのかわかんねぇよ」って言ったりしましたよ。

――清原さんに、そのように接したのは理由があるんですか?

平野 鳴り物入りで入ってきた男だから"腫れ物に触る"というのか、周りが扱いに困っている部分があったんです。でも、僕のような外から来た人間にとっては、そういう部分は関係ないからね。「あいさつもまともにできない」という噂は聞いていたけど、彼もまだ子どもだったから。のほほんとしている部分もあったし、おっとりした部分もあったから、「やかましい先輩がひとりぐらいいてもええやろ」って思って、そういうことを言ったんです。

――すでにベテランという立場になっていたし、生え抜き選手ではないからこそ、フランクに清原さんとつき合おうとされたんですね。

平野 まぁ、そういうことですね。おかげで、その後もキヨとはいい関係が築けたと思いますよ。後に、僕がロッテの二軍監督で、彼がジャイアンツのファームで調整していたときに、よくジャイアンツ球場で一緒になったんです。そのときにも、アイツはすぐに駆け寄ってきて、あいさつしてくれるようになった。まぁ、ベテランとして僕がやっていたのは、それぐらいのことでしたね。

(後編に続く)

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