元DeNAの白根尚貴がコーチへ転身。
亡き母との思い出の地で再出発

  • 井上幸太●文・写真 text&photo by Inoue Kota

「山陰のジャイアン」の愛称で親しまれた開星高(島根)時代は、投打の柱として計3度の甲子園出場を果たした。高校通算40本塁打の長打力と、右方向にも打てる技術を武器にプロへと飛び込んだが、入団直後の春季キャンプで、いきなり"洗礼"を受けた。

「入団する前は、『プロはあまり練習しない』というイメージを漠然と持っていましたが、いざキャンプが始まると練習量の多さに圧倒されました。当時チームの主力だった小久保(裕紀)さん、松中(信彦)さんは、全体練習が終わった後も最後まで残ってバットを振っている。"超一流"と呼ばれる方々が、どの若手よりもストイックに練習をしている姿を見て、『とんでもない世界だ』と、衝撃を受けました。自分が追いつくには、24時間バットを振り続けても足りないんじゃないかと思ったほどでした」

 抱いていた自信が早々に打ち砕かれただけでなく、故障にも悩まされた。

「入ってすぐに手術(トミー・ジョン手術、頭骨棘除去手術)を受けて、プロ1年目を棒に振ってしまった。2年目に復帰できましたが、木製バットに対応できず、打球が全然飛ばない。木製に慣れてきたのは、3年目になってからでしたね」

 体の不安もなくなった3年目は、三軍戦でチームトップの10本塁打を記録した。4年目は育成選手への契約変更もあったが、二軍のレギュラーに定着。オフの育成契約更新を断り、トライアウト参加を経て、DeNAに支配下選手として移籍した。

 移籍初年度の2016年に一軍初出場を果たし、ファームでもイースタン最多の118安打を記録。さらにリーグ最多タイの二塁打を放つなど、確実性、長打力両方で成長の跡を示した。

 そして、2017年に一軍初本塁打を放つ(6月17日・オリックス戦)。高校の先輩にあたる、梶谷隆幸から譲り受けたバットで放った"メモリアル弾"だった。

「環境を変えたことによる気づきがあって、逆方向に長打が打てるようになった。練習でバックスクリーンに放り込めるだけの力も着いてきて、一軍でホームランを打つことができました。少しずつではありますが、前に進んでいけたのかなと」

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