2019.04.17

野村克也の教えに「うわ、すげぇ」。
土橋勝征はID野球を素直に吸収した

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

西武野球はプレーに余裕がある大人の野球

――日本シリーズとは話題が外れますが、この当時、ライオンズのセカンドだった辻発彦さんが1996年にスワローズに入団しました。この年、土橋さんはセカンドからレフトへコンバートされましたね。

土橋 1995年に主力となって試合に出だしたときに、辻さんがヤクルトに入団してセカンドをはく奪されました。当時は、「あれ、せっかくオレがセカンドだったのに」って思いましたよ。でも、「オレが監督だったら、絶対に辻さんを使うな」とも思いましたね。具体的に何かを教わったわけではないんですけど、ポジショニングは絶妙で、すごく勉強になりました。のちにジャイアンツの仁志(敏久)のポジショニングがすごいって話題になったけど、あれはジャイアンツだから目立っただけで、「そんなこと、オレとか辻さんはもつと前からやってるよ」って思いながら見ていましたね。

――1992年と1993年と2年にわたって繰り広げられたスワローズとライオンズの一騎打ち。結果は共に日本一が一度ずつ、対戦成績は全14戦で7勝7敗でした。この結果を踏まえて「決着がついた」と言えるのでしょうか?

土橋 あくまでもヤクルト側の人間から言えば、メンバー的には向こうが全然強いでしょ。こっちは、それこそ「ID野球」じゃないけど、野村さんがあの手この手を使って戦ったのに対して、向こうは「どうぞいらっしゃい。受けて立つぜ」みたいな感じでしたから。1993年は首の皮一枚の差で、かろうじて西武をやっつけた。その心のよりどころになったのはやっぱりデストラーデだったんだと思いますね。

――前編にもお話が出ましたが、「1993年はデストラーデがいない」という事実が、心理的に優位にさせてくれたんですね。

土橋 そうです。「デストラーデがいないなら、何とかやっつけられるぜ、何とかしようぜ」そういう気持ちの部分が、すごく強かったと思いますね。とにかく、当時の西武の野球は大人の野球でした。プレーに余裕があるんです。こっちは必死にやっているのに、向こうはサラッとできちゃう。そんな感じでした。

――この連載を通じて、スワローズサイドの方はみんな同じような発言をされています。

土橋 1992年のときは、相手メンバーを見て圧倒されていました。でも、少しずつ"免疫"ができてきて、チームの雰囲気が少しずつ変わっていった。僕自身もそうですよ。1992年、レフトの守備固めで起用されたときは、別に「オレのところに飛んでくるなよ」とは思わなかったけど、不安な気持ちで守っていました。でも、1993年、ライトの守備固めで起用されたときには「オレのところに飛んでこい」って思っていましたからね。

――あらためて、あの2年間の日本シリーズを総括していただけますか?

土橋 とにかく、1992年のシリーズは一日が長かったです。僕自身は守備固めなのに、胃が痛くなったりもしました。でも、今から思えばやっぱり「ラクしたらダメだな」と思いますね。あの2年間のような苦しい経験、思いをしておかないと、「あとにいいことはないな」とすごく感じます。今、自分が指導者になって、若い選手に対しても「ここで踏ん張らないとダメなんだ」という思いで、あえて心を鬼にする部分もありますね。

――1992年初戦、守備固めからの出場で見せたダイビングキャッチ。実は目測を誤りながらも、見事にキャッチしたことで、多くのことを学んだんですね。

土橋 そう、そう。本当に捕ってよかった。本当にそうなんですよ。

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