土橋勝征が守備固めで危機一髪。秋山幸二の打球に「やっちゃった」 (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

「デストラーデがいない今年こそチャンスだ!」

――野村監督はしばしば「主役と脇役」という言葉を口にしますが、土橋さんは面と向かって「お前は脇役に徹しろ」と言われたことはありますか?

土橋 面と向かって「お前はこうしろ」と言われたことはないですけど、「主役と脇役がいるんだ」とか、「お前は絶対に主役じゃないよ」とか、「こういう技を磨きなさい」と言われたことはありますね。

――後に入団する宮本慎也さんは、野村さんから贈られたという「一流の脇役」というフレーズをしばしば使いますよね。

土橋(宮本)ヘッドは、大きく分けたら「こっち側」です。でも、さらに細かく分ければタイプは違いますよ。僕は一応、プロ入りのときにはホームランバッターとして入団しているんです。初めの頃は「第二の池山を目指せ、広澤を目指せ」と教育されました。それなのに、野村監督になってからは急に、バットを短く持ち始めたわけですから(笑)。

――1992年日本シリーズは3勝4敗でライオンズに敗れました。当時のチームのムードはいかがでしたか?

土橋 やっぱり、「セ・リーグで優勝しても、日本一にならないとあんまり意味がないな」、みたいな部分はありました。結局、負けて終わっているわけですからね。だから、春のキャンプの時点からすでに、「今度は何としても日本一を獲りに行くぞ!」という雰囲気はすごかったです。

――接戦となった1992年第7戦は、7回裏の「広澤スライディング」が物議をかもしました。その後は走塁に関する意識はチーム内で高まったのでしょうか?

土橋 そうですね。野村さんは、特にあのスライディングについてよく話していました。ミーティングでは、ハッキリと「走塁で負けた」と言っていましたし。覚えているのは、二盗だけではなく三盗の練習をすごくしたし、実際の試合でも三盗をよくしかけた気がします。

――二盗だけではなく、三盗も積極的に仕掛けていったんですね。

土橋 二盗はやっぱりマークがきついんです。でも三盗になると、投手からは(走者が)見づらいし、速い牽制も少ないし、どうしてもマークが緩くなる。そういう理由で三盗の練習をすごくやった記憶があります。

――そして、翌1993年もライオンズとの日本シリーズとなりました。チーム内には「今年こそ!」のムードが芽生えていたのでは?

土橋 1993年はデストラーデがいなくなりましたから、それが大きかったですね。「これならいけんじゃねぇか!」みたいな(笑)。そんなムードでした。秋山さんも、清原(和博)さんも、もちろんインパクトはあるんですけど、やっぱりデストラーデの存在はすごかった。でも、(1993年は)そのデストラーデはいない。このときは、それを強く感じましたね。

(後編に続く)

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