敵地で田尾コールが起こった最終戦。「野球人生の頂点はあの胴上げ」 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

「先発ピッチャーだったら、クオリティスタートゲームを2試合続けてくれ。リリーフピッチャーだったら、1イニングをゼロにするというのを3試合続けろ。ゼロ、ゼロ、ゼロと抑えたら、必ず一軍に上げるから」選手たち全員にフラットに競争を求めた。

「僕が現役で2回トレードを経験して感じたのは、外様や年を取ったらそれだけでチャンスが減る。でも、そんなものじゃないぞ、ということ。特に窓際に居る連中というのは若い連中よりももっと必死かもしれないですよね。そのエネルギーを使いたいというものがありました。(球団から)若いの、若いの、と言われてそれはわかるんですけど、1年目に限ってはスタートした年ですし、もし同じ力ぐらいだと思ったら、ベテランを使うぞと言ったんです」

 そして、こう続けた。

「僕は監督ってお金儲けをする仕事じゃなくて、受け持った選手たちや応援してくれる人たちを幸福な方向に持っていってあげることが一番大事だと思う。ファンのためにどんな野球をやるか。東北の人たちには、同じ負けるにしても絶対に最後まであきらめない姿勢を見せていこうと選手に話していました。自分がどう見られるか、なんて考えていては、監督はできないですよ」

 田尾には、1982年、130試合目の大洋ホエールズ(当時/現在の横浜DeNAベイスターズ)戦で5打席連続敬遠された経験がある。この試合に勝てば中日の優勝が決まるという一方で、大洋の長崎啓二に1厘差に迫る首位打者のタイトルを争っていた。ところが、長崎に首位打者を取らせるために大洋の関根潤三監督は全打席で田尾との勝負を避けた。先頭打者の田尾が全打席出塁するわけであるから、中日の勝利=優勝はその段階で見えたと言えよう。しかし、挑戦する機会をすべて奪われた田尾は最終打席で、ボール球に対し抗議の空振りをする。最後は黒江透修コーチに説得されて一塁に歩くのだが、このときの体験も監督哲学に影響している。

「自分が評論家時代に、長嶋茂雄さんに会ったとき、阪神の調子を凄く気にされていたんですね。プロ野球発展のためには阪神もがんばってもらわないと困るということを話していて、巨人の監督でありながらそこまで考えておられるんだと感銘を受けました。僕が監督の立場でもし球団から『首位打者を作りたいんだ』と言われたらその時点で、何を指標にするかといったらファンなんです。あの130試合目の大洋戦はファンにとってのゲームの見どころは2つ。中日が勝てば優勝、負ければ巨人が優勝。それと、僕と長崎さんの首位打者争い。そのゲームの見どころ2つをまったく無視したゲームをしてしまった。だから、自分が当事者だったからというわけではなく、僕がもし監督で敬遠の指示を出してくれと言われたら、『それは僕にはできません』と言うでしょうね」

3 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る