2018.12.19

意外すぎる「こむらがえり」。古村徹は
戦力外→NPB復帰を信じ続けた

  • 村瀬秀信●取材・文 text by Murase Hidenobu

茅ヶ崎西浜高校時代はエースとして活躍

 3年生になって迎えた2011年の夏、横須賀スタジアムで行なわれた神奈川県大会の3回戦では”打者・古村”が離れ業をやってのける。1点ビハインドの9回裏2アウト満塁の土壇場で、大会史上初となる逆転サヨナラ満塁ホームランを放つ。打ち取られたら高校野球が終わるギリギリの場面からの大逆転劇に「なんて奴だ」と戦慄したことを覚えている。

「入学時から素質はずば抜けていましたが、我が道をいくというか、自分の決めたルール、ポリシーを貫こうとする選手でした。だから、強豪校に入っていたら続かなかったかもしれません。まぁ、手を焼きましたけどね(笑)。ただ、負けん気だけは強くて、練習だけはよくする子でしたよ」

 古村の恩師で、当時の茅ヶ崎西浜高校を率いていた渡辺晃監督は、高校時代の古村をそう回顧する。

 中学3年生の時、私立の強豪である桐蔭学園高校からの誘いもあったが、野球を辞めるつもりで家から近い茅ヶ崎西浜高校に進んだ。爪楊枝みたいに細い眉で、高校では典型的な”お山の大将”。一度は離れかけた野球ではあったが、「やる」と決心してからは、一度もないがしろにしなかった。

 3年生の夏の大会前には左肩を故障するも、「育成でもいいから行きたい」とプロにこだわった。「県立と私立の強豪では練習が違う。3年間で体を作ってから、その先で勝負」という周囲の言葉にも、古村の「やれる」という自信は揺らがなかった。

 しかし、プロ野球選手になった古村が、横浜スタジアムで投げることは一度もなかった。横須賀の練習場ではいつも別メニュー。コーチに現状を聞いても、「ケガがよくならないことには……」という苦しい返答を聞くばかりだった。

 育成契約となった2年目にはイースタンリーグの最終戦で公式戦に初登板を果たしたが、3年目の2014年シーズンは再び登板がなく戦力外。その年は、北方悠誠、伊藤拓郎、佐村トラヴィス幹久、冨田康祐(育成選手として入団)も宣告を受け、ドラフト同期入団の全投手がチームを去った。

 2012年に親会社が移ったことで、チームの適正人数の認識が変わったこともあるだろう。高田繁GMが「うちではチャンスがなかったが、外に出てチャンスを掴んでほしい」と断腸の思いを語り、他の選手たちは現役続行を希望した。しかし古村にだけは、「実績のない選手を他球団が獲る可能性は少ないだろう」と、打撃投手への転身が打診されていた。