プロを選ばず高校野球の名将へ。鍛治舎巧は母校で「革命」に取り組む

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Kyodo News

高校野球の監督は生涯の夢

 県立岐阜商業、早稲田大学で活躍し、日米大学野球では四番を任された鍛治舎巧。松下電器産業(現・パナソニック)野球部での2年目、1975年のドラフト会議で阪神タイガースから2位指名を受けるもそれを拒否し、1981年まで現役を続けた。

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現在は母校・県立岐阜商業の野球部監督を務めている鍛治舎現在は母校・県立岐阜商業の野球部監督を務めている鍛治舎 引退後、松下電器の野球部監督を経てオール枚方ボーイズの監督を務めていた2006年、鍛治舎は松下電器の役員になり、その後も常務役員、専務役員として宣伝・広報、社会文化、CSRなどの職務を歴任した。2014年にはパナソニック(2008年に社名変更)の専務を退任し、同年4月から秀岳館高校の野球部監督に就任。その就任会見でこう語っている。

「高校野球の監督は私にとって生涯の夢でした。選手と一緒に汗とほこりにまみれて白球を追いかける。これ以上のロマンはありません」

 熊本にある私立秀岳館高校の野球部は、甲子園に2度出場した経験があったものの、2003年以降は10年以上も甲子園から遠ざかっていた。にもかかわらず、鍛治舎は「3年で日本一を目指します」と宣言したのだ。周囲からは「62歳の無謀な挑戦」と見られた。

 監督を務めていた枚方ボーイズの選手が大勢入学してきたこと、ベンチ入りメンバーを大阪出身の選手が占めたこともあって、秀岳館を「大阪第二代表」と揶揄(やゆ)する声も聞こえてきた。ときには「大阪へ帰れ」という心ないヤジも飛んできたという。

 そんなとき、鍛治舎は選手にこう話した。

「ほほ笑み返ししなさい。あのファンは相手チームが大好きなんだと思うぞ。きみの手で秀岳館ファンに変えてみろよ。ヤジにも笑顔でお返ししろ」

 秀岳館の監督時代にはさまざまな批判にさらされたが、鍛治舎が反論することはなかった。

「大阪から秀岳館に入った選手の多くが、熊本や九州に血縁や地縁があった選手たち。それに枚方ボーイズでレギュラーだった選手ばかりでもありません。枚方でベンチ入りしたことのない選手がエースに成長した例もあります。でも、そんなことをいちいち言っても仕方がないですからね。『大阪第二代表』と言われても、言い訳しないでやってきました」

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