野村克也のコンプレックス炸裂。
「巨人出身の森祇晶に負けたくない」

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

あのスライディングは広澤が悪いわけじゃない

――1992年のシリーズでは、第7戦の同点で迎えた7回裏、広澤克実さんのスライディングが問題となりました。

野村 あぁ、あの下手くそなスライディングね。よく覚えていますよ。普通なら真っ直ぐ走ればいいのに、タッチをかわすようなスライディングをしたんだよ。あれはスタートが遅れたんだよな。本来ならば楽々セーフですよ。でも、あれでオレの走塁観が変わったのも事実。あのシーンは、とても思い出深いね。

――走塁観が、どのように変わったのですか?

野村 例えばあの当時は、一、三塁のチャンスの場面では「バットにボールが当たる瞬間をしっかりと見極めろ」とか、「ライナー、フライなら戻れ。ゴロなら行け」という考えだった。でも、そんなことしてたらスタートが遅れるわけです。打球を確認してからスタートするわけだから。でも、そのリスクを無視する必要もあるんじゃないか。そんなことを考えるようになったのが、あの広澤のスライディングですよ。

――この場面がきっかけとなって、いわゆる「ギャンブルスタート」が考えられたと言われていますね。

野村 そう。ここでライナーが飛んだら仕方がない。それはすべて監督の責任でいい。そういう割り切りが生まれたのが、この場面、このスライディングですよ。

――広澤さんは「このスライディングで負けてしまった」と、今でも責任を感じているとおっしゃっていました。

野村 いや、彼はセオリー通りの走塁をしただけですよ。打球を確認してからスタートする。それは、あの当時のセオリーだったから。だから、あれはあれで間違いじゃないし、しょうがない。あれはすべてオレの責任です。でも、そのおかげで「勝負どころでは一か八かの勝負をかけなければいけない」ということを教わった。

――この経験を踏まえて、1993年の日本シリーズではギャンブルスタートを成功させて勝利します。こういうことの積み重ねでチームが強くなっていく実感はありましたか?

野村 そう。やっぱり勝って学ぶよりも、負けて学ぶことの方が多いから。負けて痛い目に遭うからこそ、いろんなことを学ぶ。でも、西武に対する「自信」なんてものはなかったね。せいぜい、「そんなに劣等感を持たなくてもいいのかな?」っていうぐらいの感覚だった気がしますね。

――1992年に関して言えば、野村さん自身に「勝てるわけない」という思いがあったし、ライオンズに対して劣等感も持っていたんですね。

野村 それも勉強になったよね。監督の考えていること思っていることは、自然と選手たちにも伝わるんだなって。そういう怖さを知ったよね。「これは西武には勝てないぞ」って思うじゃない? そうすると、それはムードとして伝わってしまうんだね。やっぱり、監督自身が本当に自信を持っていないと、いくら口で「自信を持て!」って言ったって、それは無理なんだよ。そういうことをこの年のシリーズでは学んだ気がしますね。

(後編に続く)

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