ベンチの指示で内角へズバズバ。荒木大輔は日本シリーズ初戦で攻めた (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

初戦の初回に2つの死球。それでも動揺はなかった

――1993年の日本シリーズは、再びライオンズとの激突でした。シーズン中はローテーションの谷間中心の登板だったのに、荒木さんは初戦の先発マウンドを託されましたね。

荒木 リーグ優勝が決まった翌日の全体練習のときに、神宮のブルペンで監督に告げられました。確か、「1戦と6戦を頼むぞ」と言われたと思います。この年はデストラーデが抜けたこともあって、めちゃくちゃ気がラクでした。清原(和博)だ、秋山(幸二)だと言っても、ある程度はイメージができていましたから。体調もよかったし、気持ちも入っていたので、すごくいい状態でシリーズに臨めましたね。

映像を見ながら当時を振り返る荒木氏 photo by Hasegawa Shoichi映像を見ながら当時を振り返る荒木氏 photo by Hasegawa Shoichi――10月23日、当時の西武球場で行なわれた初戦。荒木さんは、ライオンズ一番・辻発彦選手に死球を与えます。そして、1アウト二塁の場面では、三番・石毛宏典選手にも死球。この場面を振り返っていただけますか?

荒木 西武の打者がバッターボックスぎりぎりのところに立っているのはわかっていました。ベンチではその点を心配していたようですけど、「大丈夫、内角を攻める」って言って、あのボールを投げました。投げミスで当たったのではなく、厳しいコースを狙って投げた上でのデッドボールだったので、何とも思っていなかったです。

――「厳しいところを攻めろ」というのは、ベンチからの指示だったのですか?

荒木 そうです。ミーティングで言われていました。西武打線がどの程度内角のボールをさばけるかを見たかったんだと思います。でも、それが豪速球ピッチャーじゃダメなんです。抑えて当たり前だから。でも、僕のような130キロ後半ぐらいの投手のボールで、「どの程度通用するのか?」を試したかったんだと思います。

――荒木さんならば、内角をきちんと投げ切るコントロールと度胸があるから、その点を野村監督は見越しての初戦登板だったのでしょうか?

荒木 後に、そういう意味のことを監督に言われました。要は偵察要員のようなものですよ。それが、この年のシリーズでの僕の役割だったと思います。でも、もしも僕が監督だったとしたら、「初戦・荒木」ということはないですけどね(笑)。

――初回にいきなり2つのデッドボールを与えて、動揺はなかったのですか?

荒木 ないですね。自分のミスだったら動揺はあったと思うけど、「こういうボールを投げよう」という自分の意図通りでしたから。このときは、ヤクルトベンチのほうが怒っていましたよ。「避けられるだろう!」って。

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