西武もヤクルトも好機で代打なし。打席に立つ両エースが背負った信頼 (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

純粋に勝負を楽しめた2年間

――1993年も再びスワローズとの日本シリーズとなりました。この年は腰に不安を抱えてのシリーズ入りだったんですよね?

石井 1993年はペナントレースで190イニング以上(191回3分の2)投げたんですよ。もともと腰はよくなかったんだけど、この年はシーズン終盤にはベッドでも寝られないほど腰を痛めていました。そんな状態で日本シリーズを迎えたんです。

――この年は第4戦に先発、そして第7戦ではリリーフ登板でした。

石井 第4戦は、川崎(憲次郎)くんがヤクルトの先発だったんですけど、本当に彼のボールは打てなかったですね。僕もどうにか投げていたんだけど、1点を取られて4回で降板。やはり、この年はそれぐらいの信頼しか得られていなかったんですね。前年のシリーズではすごく信頼されていたのがわかっていただけに、本当に残念でした。

――1992年と1993年、スワローズとの2年間の日本シリーズを振り返っていただけますか?

石井 西武もヤクルトも似たような野球をやるチームでしたが、ヤクルトは野村監督の下で、緻密で相手が嫌がるような野球をしていましたね。当時の西武は一流選手が揃っていたけど、この頃のヤクルトはまだ出始めというか、そこまで実績のないチームだったのが、チームとしての成長をすごく感じました。若い選手が一気に台頭して、勝つべくして勝ったのが1993年のヤクルトでしたね。「よっぽど、1992年の敗戦が悔しかったんだろう」と思います。

―― 一方のライオンズは、どのような変化を感じましたか?

石井 1990年代前半までは、本当に隙のない緻密な野球をして、チーム力で勝負していました。でも、1990年代半ばからは若い選手が台頭して、選手個々の力を引き出して強くなっていく。そんなイメージがありますね。

――では、石井さんにとってのこの2年間を振り返っていただけますか?

石井 この2年間は、本当に苦しい野球をしたなという思いがあります。1992年も、1993年も結果を気にしないで、本当に心から勝負を楽しめた気がします。とにかくバッターとの勝負に集中していました。僕にとって最高の2年間。高校の同級生だった(荒木)大輔にもいいところを見せられたし、本当に幸せな2年間でした。

――この2年間では全14試合を戦って7勝7敗で、ともに日本一に輝いています。両チームの決着はついたのでしょうか?

石井 うーん、ちょうどよかったんじゃないですか? 森さんも野村さんも、ともに勝利した。だからイーブンじゃないですか? それでいいんだと思います(笑)。

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