野村克也の選手起用に名参謀もビックリ。「高津臣吾を抑えにしよう」 (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

選手たちをその気にさせた野村監督の功績

――1993年シーズンは、前年に故障に泣いた川崎憲次郎投手が復活。さらに、高津臣吾投手がクローザーとして台頭し、日本シリーズでも活躍しました。

丸山 西武打線に対しては「川崎のシュートは通用するだろう」という思いはありました。川崎のようなシュートピッチャーは少なかったからね。ただ、高津については、まさかあそこまで通用するとは思っていませんでしたよ。「高津を抑えにしよう」と決めたのは野村さんなんだけど、オレはそんなこと思いもつかなかった。その点、やっぱり監督は大したものだと思ったよね。

1993年から抑えに転向し、日米通算300セーブを達成した高津 photo by Kyodo News1993年から抑えに転向し、日米通算300セーブを達成した高津 photo by Kyodo News――どうして、「通用するとは思っていなかった」のですか?

丸山 やっぱり抑えというのは、速い球でズバッと三振を取れる投手のイメージがあったからね。でも、高津はシンカーをマスターしてからすごくよくなった。野村さんの眼力に、あらためて痛感したよ。

――結局1993年は4勝3敗で、スワローズが前年のリベンジを成し遂げました。あらためて、この2年間をどのように振り返りますか?

丸山 あそこまで行けたのは野村さんの手腕が大きかったと思いますよ。選手に自信を持たせて、うまくその気にさせてね。日本シリーズまで来たら短期決戦ですから、もはや技術的な問題じゃない。絶えずミーティングで「オレの言っていることをしっかりとやっていれば大丈夫」と選手たちに話して、その気にさせた。やっぱり、野村さんの功績は大きいよね。

――そうした状況下で、「参謀」として、丸山さんは選手寄りだったのか、監督寄りだったのか、あるいは中立だったのか。どのようなスタンスだったのですか?

丸山 やっぱり、選手の味方やね。「選手が何を考えているのか?」ということを、常に注意していましたね。その上で、「監督にどのように報告すればいいのか?」と考えていました。もちろん、その一方で「野村監督がどういう野球をやりたいのか?」ということは把握するように努めていました。監督の考えをしっかり理解して、選手にきちんと伝える。そして円滑にチームを進めていく。それがコーチの仕事だと思って、何十年もやってきた。それは野村さんに限らず、すべての監督の下でね。

◆西武・石井丈裕 前編へつづく>>

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