野村克也の選手起用に名参謀もビックリ。
「高津臣吾を抑えにしよう」

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

1993年は、技術的にも精神的にも対等に戦えた

――前年の悔しさを胸に迎えた翌1993年のユマキャンプでは、かなり走塁練習に時間を割いたそうですね。

丸山 選手たちはもちろん、我々コーチ陣も、前年の「悔しさ」が胸に残っていたので、キャンプでは相当練習をしましたね。僕も野村さんに怒られたからね。「今まで、どんな練習をしてきたんだ」って。あの走塁は広澤だからできる、できないじゃないんだよね。それは彼の問題というよりも、きちんと指導できなかった指導者の問題。だから、1993年のユマキャンプは徹底的に走塁練習をしました。そういうことも含めて、選手たちはこのキャンプで精神的な強さを身につけた気がします。

――1992年の悔しい結果を経て、選手たちも心身ともに強くなっていったわけですね。

丸山 まさに、そうだと思いますね。これは後の話になるけど、1993年は日本一になったのに、翌1994年はリーグ4位。1995年にはまた日本一になって、1996年は4位。そして1997年にはまたまた日本一に。連続して日本一になれなかったのは、選手自身が慢心してしまうこと。そして、僕らコーチが「もう言わなくてもわかるだろう」と油断してしまうことが理由でした。でも、1993年に関しては、間違いなく、前年の「悔しい」とか、「今度こそ」という思いが力になったのだと思いますね。

――この頃になると広澤選手、池山隆寛選手も、急に頼もしく貫禄が出てきた印象があります。

丸山 広澤も、池山も、もともとは関根(潤三)監督に育てられました。関根さんには愛情がありましたね。池山なんか、「ブンブン丸」と言われていたように、とんでもないボール球まで振っていたので、「せめてランナーがサードにいるときぐらいは前に飛ばしてくれよ」と注意をしようとした。そうしたら関根さんは、「いや、池山はね、今は成長する過程なんだ。そういうことを注意するとバッティングが小さくなるから、今は好きなように打たせてやれよ」と言っていました。矯正しなかったから、彼らは伸びたんです。そして、その後に野村さんが野球を教えて、狙い球が絞れるようになってきた。いい順番だったと思いますね。

――そして、1993年ペナントレースでもセ・リーグを制覇。1993年日本シリーズは、再びライオンズとの一騎打ちとなりました。この年のライオンズはデストラーデが抜けていました。相手戦力をどのように見ていましたか?

丸山 その年は対等に戦えたよね。技術的にも、精神的にも。勝つか負けるかはそのときの運だけど、精神的には前年に比べて落ち着いていたし、心の余裕を持って戦える状態にはなっていたと思いますよ。

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