「そんなものに負けてたまるか」
西武の石毛宏典はID野球に反発した

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

――石毛さんの意識の中には「反ID野球」の意識があったのですか?

石毛 ありましたね。我々プロ野球選手は技術屋なんですよ。投げたり、捕ったり、打ったり、そういう技術で勝負をしているわけです。売り物は技術なんです。野村さんが「ID」と言い続けたのは、我々の意識をそっちに持っていこうという情報操作戦のような気がしましたね。「ID」とか、「メンタル」という言葉に逃げているような気がして、俺は嬉しくはなかった。もちろん、それも大事かもしれないけど、「その前にもっと技術を磨くことに時間を費やせよ」と言いたくなるわけです。だから、「ID何するものぞ」という思いしかなかった。

普段はチームワークは必要ないけど、日本シリーズは別

――当時の西武ライオンズは、1990年は巨人に4連勝、1991年は広島に4勝3敗と、2年連続で日本一を達成していました。この頃の西武は、まさに"黄金時代"の真っ只中にあったと考えてもいいのでしょうか?

石毛 俺の意識の中では、巨人に4タテを食らわせた1990年が戦力的にピークだったと思います。年齢のバランス、投打のバランス、打順のバランス、すべてが確立されていたし、当時の西武はレギュラーがほぼ固定されていました。でも、そこから1年ごとにみんなが年を取っていく。1992年は、ヤクルト相手に我々が4勝3敗で勝ったけれども、非常に厳しい戦いだった。

 その年だって、1-1で迎えた第7戦の7回裏(ヤクルトの1アウト満塁のチャンス)に、サードランナーの広沢(克己/現・広澤克実)が変なスライディングでアウトになっていなければ、我々が負けていたかもしれないわけだから。そういう意味では、今から思えば1992年は緩やかにチームが"下り坂"に差しかかっていた頃だったと思うし、1993年はデストラーデが抜けて、戦力はガタっと落ちていた時期だったのかもしれないですね。

――反対にヤクルトは、「イケトラコンビ」に代表される池山隆寛選手、広沢克己選手など、伸び盛りの若手選手が多くて勢いのあるチームでしたよね。

石毛 確かにそうなのかもしれないけど、俺たちはあくまでもパ・リーグの覇者で、セ・リーグの覇者を迎え撃つという意識しかなかった。当時の我々は、シーズン開幕時点で「日本シリーズに出るものだ」という意識があったし、ペナントレース130試合と日本シリーズ7試合の計137試合が体内時計に入っていましたからね。相手がどうのこうのというよりも、自分たちの野球をやるだけだったし、「日本シリーズは簡単に勝てるものではない」ということはよくわかっていたから。

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