あの左腕エースが引退を「全然悲しくない」と思うほど痛いヒジの故障 (3ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Kyodo News

──2002年10月13日が最後のマウンドになりましたね。

野村 引退登板の日が決まって、リハビリを始めました。引退を決めたら痛みが消えると聞いたことがあったのに、全然そんなことなくて「やっぱりダメだな」と思いました。むちゃくちゃ痛かったので、引退試合で涙も出ませんでした。

 引退することに対する悔し涙はなかったですね。もちろん、悔いはあったんですが、それよりも「もう投げなくてもいい」という思いのほうが強かった

──この時はまだ33歳で、通算勝利数は101。周囲からすれば早すぎる引退でした。

野村 テレビ取材のクルーがカメラを構えていたんですが、「感動的な場面がないんですが......」と言われてしまいました。でも、実際にそうなんです。もう痛くて痛くて。取材に対しても「全然悲しくない。もう投げなくていいから、スッキリしている」と答えたのを覚えています。

──あらためて現役生活を振り返ってみて思うところは?

野村 小学2年生が野球を始めた時から、楽しく野球をした記憶はありません。野球は"やらなければいけないこと"で、練習もやらされていた部分が間違いなくあった。父親が広陵高校野球部のOBでしたからね。

 PL学園時代には、甲子園で1回戦負けすることなんか考えられなかった。勝った瞬間だけはうれしいと思ったけど、野球を楽しいとは感じなかった。僕が頑張ることができたのは、マウンドで恥をかきたくなかったから。楽しく投げたいというのと、恥をかきたくないと思って必死で投げるのとでは、結果は大きく違うでしょう。それでも打たれることがあるのが、野球の難しいところなんですが。

 今でも、イベントなどでマウンドに上がることがありますが、野球が楽しいと感じたたことはありません。サントリードリームマッチで東京ドームのマウンドに上がる時も、「打たれるのは恥だ」と思っています。あの満員の中で恥をかきたくない。お祭り的なイベントでも、バッターに打たれるのは嫌ですからね。


■野村弘樹(のむらひろき)

1969年、広島県生まれ。1987年ドラフト3位でPL学園から横浜大洋ホエールズに入団。プロ3年目の1990年に11勝をマーク。1993年には17勝を挙げ最多勝投手に輝いた。1998年に13勝でチームの38年ぶり優勝、日本一に貢献したが、1999年に左ヒジを手術した。2001年に通算100勝を達成したが、2002年に左ヒジの状態が悪化し、現役を引退。その後、ベイスターズのコーチをつとめ、現在は野球解説者として活動している。2015年2月から桜美林大学硬式野球部の特別コーチも務めている。

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