野村弘樹はヒジ手術をビデオ撮影。「ノミみたいな器具で骨を削られた」 (3ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Kyodo News

――手術のあとはリハビリですね。回復具合はどうでしたか?

野村 リリーフエースの佐々木主浩さんも同じ日に手術しましたが、佐々木さんはすぐにリハビリを始めて鉄アレイでガンガン練習してるのに、僕の回復は遅くて、ヒジの腫れが全然引かなくて......。
 
――野村さんにとって、初めての大きな手術でしたから、不安はあったでしょうね。痛みの原因を取り去ることさえできれば、今まで通りに投げられると考えていたと思いますが。

野村 手術前の状態では元通りに投げることは難しかった。でも、「手術さえすれば」という思いはありました。肩の故障なら無理かもしれないけど、ヒジを痛めても手術をすればまた投げられるだろうと。

 でも、手術をしても痛みが取れることはありませんでした。ずっと痛いまま。手術した年の秋季キャンプでも、朝起きた瞬間からやっぱり痛かった。僕はもともと右利きで、野球とゴルフ以外は左手を使わなくても生活に支障はないんですが、それでもストレスを感じました。左ヒジが痛いので、自然な動作ができない。顔を洗うことも、ドアを開けることも。特にドアの開け閉めは嫌でした。

――痛みはいつ頃なくなりましたか?

野村 結局、痛みは残ったままでした。手術から半年が経っても左ヒジは痛くて。「いつ投げられるようになるか」と心配する前に、「痛みが取れるのか」という不安のほうが大きかった。痛みがなくならない限り、普通に投げられるようにはなりませんから。全然痛みが取れないので、痛み止めを飲みながら練習していました。

 手術から半年を経過した時の痛みを10としたら、一番コンディションがいい時でも6か7くらいまでしかよくならなかった。ドクターには「もう問題ない」と言われたんですが、ずっと痛かった。だから、手術のあとはバッターと勝負したことがありません。いつも、自分の体と戦っていました。そのうち、ヒジはまっすぐ伸びなくなり、曲がらなくなりました。2002年限りで引退することになるんですが、最後の3年間はずっと苦しかったですね。

(つづく)


■野村弘樹(のむらひろき)

1969年、広島県生まれ。1987年ドラフト3位でPL学園から横浜大洋ホエールズに入団。プロ3年目の1990年に11勝をマーク。1993年には17勝を挙げ最多勝投手に輝いた。1998年に13勝でチームの38年ぶり優勝、日本一に貢献したが、1999年に左ヒジを手術した。2001年に通算100勝を達成したが、2002年に左ヒジの状態が悪化し、現役を引退。その後、ベイスターズのコーチをつとめ、現在は野球解説者として活動している。2015年2月から桜美林大学硬式野球部の特別コーチも務めている。

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