追悼・上田利治──。現役わずか3年も、情熱で歩んだ「名将ロード」 (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 声の主は、2年前まで南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)で23年間指揮を執っていた鶴岡一人だった。近鉄の監督就任の話が水面下で進んでおり、組閣を固めるなかで広島時代の指導ぶりを耳にしていた鶴岡が、上田に声をかけてきたのだ。この誘いを二つ返事で了承すると、予定を少し早め帰国。あとは発表を待つばかりだった。

 ところが......最終確認の連絡が入る予定だった日、突然、話が立ち消えになった。表向きは鶴岡の健康上の理由ということだったが、真実はわからない。もしそのまま近鉄のユニフォームを着ていたら、その後の上田の野球人生も、プロ野球の歴史も、まったく違ったものになっていただろう。

 そんな失意の上田に声をかけてきたのが、阪急だった。当時の阪急は、西本監督8年目を終え、チームは4位に終わり、外部から新しい血を求めていた。西本は当初、山内一弘の招聘を考えていたが、一瞬早く巨人監督の川上哲治が声をかけ、巨人のコーチ就任が決まっていた。そこで上田に声がかかったというわけだ。上田は当時を振り返り、こんなことを口にしていた。

「人の人生、真っすぐに行くことはない。こっちの道も、あっちの道もある。そういうなかで僕にとっては、西本さんに見込まれて阪急のユニフォームを着たというのが、正道やったんでしょう」

 1971年、打撃コーチとして阪急に入ると、その年からチームはリーグ2連覇を達成。ただ、日本シリーズではことごとく巨人に敗れた。この71年も、阪急はシーズンで41の貯金をつくるなど圧倒的な強さで勝ち上がった。大方の予想は"阪急有利"と見られていたが、山田久志が王貞治に逆転サヨナラ3ランを喫するなど、1勝4敗で完敗。

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