不世出のアンダースロー左腕・永射保が語っていた「左殺し」の誇り (5ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Jiji photo

 ストレートとカーブだけで、プロ19年間で606試合に登板した。ただ、防御率に注目すれば、2点台は2.41を記録した1983年のみ。実際にはそれなりに打たれ、それなりに点も失っていた。ただ、「ここぞという場面」で、ことごとく相手の強打者を抑えた印象が、当時のパ・リーグの戦いのなかに色濃く残っている。

 その後、永射氏のように腕を下げ、力のあるボールを投げる"対左打者用"の投手は何人もいたが、真の意味で永射氏を彷彿とさせる投手は出ていない。

「とにかく早く、簡単につくりたいと思っているんですよ。フォームも固まっていないのにすぐ一軍で投げさせて......もうちょっと我慢して使ってやれば5、6年は持ったのに。僕が一軍で結果を出し始めた頃も『永射のマネをさせろ』とほかのチームもやり始めた。でも、ものにならなかった。僕のところに直接アドバイスを求めてきた選手もいたけど、『とにかく走って、下半身を鍛えないとこの投げ方はできない。そこを省くと、今年は成功しても短命で終わるよ』と。そんな話をすると、誰も聞きにこなくなった」

 小柄な体からしばしば発せられる強い言葉が、時間をかけて築き上げた自らのスタイルへの自負心を伝えているようだった。この志と精神力の先にあった、あの投球フォームとあのボール。"第2の永射保"が生まれなかった理由がわかった気がした。

 永射氏が亡くなったのは6月24日。実はその前日の"6月23日"は、永射氏にとって忘れることのできない日だった。

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