不世出のアンダースロー左腕・永射保が語っていた「左殺し」の誇り (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Jiji photo

 1982年に広岡達朗が西武の監督になり、先発とリリーフの分業制がスタートした。それ以前の永射氏は、本人曰く「3連戦の初戦が先発、2戦目がワンポイント、3戦目が中継ぎか抑えということもあった」という通り、1977年のシーズンは199回2/3イニングを投げている。

 それがリリーフ専門となり、なかでも左の強打者相手という特殊な仕事を任されることになった。

 左の下手から浮き上がって見えるストレートに、左打者の背中越しから視界の外へ消えていくカーブ。たったこのふたつの球種で、パ・リーグの左の強打者たちを抑え込み、時には戦意さえ奪った。

 なかでも4年間で155本塁打を放ち、"サモアの怪人"と呼ばれたトニー・ソレイタ(日本ハム)は完璧に封じ込めた。

「4年間、ヒットもなかったんじゃないかな。しかも、僕のイメージでは9割が三振。毎年、40本塁打、100打点くらいを稼いでいたのに、最後はクビ。当時の日本ハムは、とにかく西武に勝つことだけを考えていて、監督の大沢(啓二)さんが『西武戦で打てんようなヤツはいらん』となったみたいで......。僕以外の投手には素晴らしいバッティングをしていたのに、かわいそうな話ですよね(笑)」

 また、4000打数以上でNPB歴代トップの打率.320を誇るレロン・リー(ロッテ)は、あまりの苦手意識から右打席に立ったこともあった。

「所沢の試合でした。満塁で、どうせ打てないからと右打席に立ったんだけど、インコースをどん詰まりでレフト前に持っていかれてね。こっちも半分笑いながら投げていた」

 対戦するのは主軸打者ばかり。相手ベンチからすると、代打を出すわけにもいかない。そう話を向けると、「それが一度だけね」と言って、こんなエピソードを教えてくれた。

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