巨人ドラ1からの遠回り。日ハム村田透が10年目の初勝利に至るまで (2ページ目)

  • 阿佐智●文 text by Asa Satoshi
  • photo by Kyodo News

 その村田と初めて話をしたのは、ドラフトから4年後の冬だった。彼の行く先に見えていたはずのキラキラした道は、茨の道に変わっていた。

 巨人はドラフト1位の有望株をたった3年で放出。村田はアメリカに新天地を求め、その準備として、オフにはできたばかりのパナマのウインターリーグに参加していた。

 時にサッカー場で練習しなければならない過酷な環境にわざわざ出向くその姿は、日本のプロ野球では得ることのできなかった実戦のマウンドを貪(むさぼ)っているようにも見えた。巨人での最終年のシーズン後半は、ファームの試合にすら投げさせてもらえなかった。

「別に体は大丈夫だったんですけど......」

 当時のことについて、村田が多くを語ることはない。ただ、戦力外通告を受けた後、育成に力を入れる方針だった球団に批判めいたことを口にして物議をかもしたことから、村田と指導者との間に何らかの軋轢(あつれき)があったことは推測できる。

「秋には、もう(クビになると)わかっていました。寮に球団から電話があって呼び出されたんですけど、もうそのときは、覚悟はできていましたね」

 引退する気などまったくなかったという村田は、クリーブランド・インディアンスと6年のマイナー契約を結んだ。そしてアメリカで実戦のチャンスを得た村田は、着実に階段を登っていった。

 渡米5年目となる2015年には、1試合だけではあったが、ついにメジャーの先発マウンドに立った。3回1/3を投げ5失点(自責点3)。結局、これが最初で最後のメジャーのマウンドとなる。だがこのシーズン、村田は3Aのローテーションを守り続け、15勝を挙げ最多勝に輝いた。

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