石井弘寿、悲運のWBCマウンドも
「自分の決断なので後悔はない」

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Kyodo News

──明らかに異常事態じゃないですか。

「肩が疼(うず)いて、上がらなくなりました。それでも試合で投げさせてもらったのですが、最速は130キロくらい」

──すぐに診察してもらったのですか。

「いえ、病院には行きませんでした。それまでも登板後に『デッドアーム』(力が入らない状態)になった経験はあり、それはリハビリで戻すことができていた。でも、このときは明らかにいつもと違いました」

──もう保存療法では難しいのでは。

「病院に行けば、絶対に絶望的な診断をされたでしょう。球団には『もう1年だけ』とお願いして、現役を続けさせてもらいました。5年間という長い期間、リハビリをさせていただいたスワローズには本当に感謝しています」

──長く二軍で頑張っても、残念ながら一軍で通用するレベルまで戻りませんでした。

「僕はプロのピッチャーで、それも一軍のマウンドを目指していましたから、冷静に自分のことを見ていました。昔のように150キロのボールは難しい。年間50試合に登板することも、最後までイメージできませんでした」

コーチとしてチームに恩返しをしたい

──2011年10月、現役生活の最後に一軍のマウンドに上がります。神宮球場でファンに見守られての引退登板になりました。

「完全な形で戻ってきたかったのですが、登板の機会を与えていただき、これほど幸せなことはありません。2011年に監督だった小川淳司さんは、僕が入団したときのスカウトでした。最後に受けてもらったのは高校の先輩の相川亮二さん。そんな巡り合わせにも感謝ですね。

 神宮には大勢のファンの方がいて、僕が元気に投げていたときと変わらない声援を送ってくれました。『忘れないでいてくれたんだ』と思うと、胸が熱くなりました」

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