引退した元巨人・加藤健が語る、18年の控え捕手人生と「あの死球」 (2ページ目)

  • スポルティーバ●文 text by Sportiva 寺崎江月●協力
  • photo by Kyodo News

──2年目には一軍デビューを果たしましたが、その年のオフ、同じポジションに阿部慎之助選手が入団してきました。

「すごい人が入ってくることは、わかっていました。自分が巨人で生きるためには何かを変えないといけないし、どうやったら近づけるかを考えた。でも、高すぎる壁でした。野球の技術を磨いても、越えられる壁でもなかった。その時、自分の役割とは何かを考えるようになりました。もし阿部さんを抜くというイメージで野球をやっていたら、もっと僕の野球人生は早く終わっていたでしょう」

──控えでいることの難しさ、モチベーションの維持は大変だったと思います。

「正直、結構きつかったこともありました。いつくるかわからない出番への準備をして、いろんな想像をしながら待たなければならない。ですから、試合に出なくても疲れはあるんです。初めのプレーがどれだけ大事かというのも痛感しました。最初のワンプレーで結果を残せば、次の試合も自分は一軍にいられる。またよかったら次の日も。そこでよければ、もう1日、もう1週間......となるかもしれない。だから初めのプレーはどんな状況であろうと、人生かけるというか、必死でしたね」

──そうした努力を積み重ねた結果、プロ入り17年目の2015年がキャリアハイの出場数(35試合)でした。

「あの年はイメージ通りにいきました。最初に一軍に上がった時に準備はできていたし、それで結果を残せた。昇格の連絡をもらったのは、イースタンの試合があった静岡でのフリー打撃後。阿部さんの首の状態がよくないということでした。すぐ東京ドームに行けと言われて、大きな荷物を持ってひとりで新幹線に乗った。荷物が重かったので腕はパンパンに張って、そのまま試合に出たのを覚えています」

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