7年前、メジャースカウトが受けた「高校1年・大谷翔平」の衝撃 (3ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 アメリカで孤独なリハビリを続けた小島は、その後、テキサス・レンジャーズと契約し、マイナーから復帰を目指した。桑田が東京ドームで劇的な再起を果たした1997年、小島もアメリカのA級で復帰を果たし、AA級では勝利投手にもなった。翌年には帰国して中日、その翌年には台湾の興農ブルズに所属して、引退。その後、ドジャースの日本担当スカウトとなった。じつは大谷の前に同じ花巻東の菊池雄星に惚れ込んで、獲得寸前までこぎつけたこともある。菊池がドジャースではなく日本のプロ野球を選び、ドラフトで西武に入団することになった半年後、終わったと思っていた小島の花巻通いが、間を置くことなく、またも始まったのである。

 しかし、大谷の高校時代は決して順風満帆ではなかった。身長が190センチを超えてもなお成長段階にあったため、骨の成長に筋肉が追いつかず、股関節の軟骨が傷つく骨端線損傷に悩まされたのである。そのせいで大谷は高校2年の夏からおよそ半年間、試合で投げることができなかった。しかし小島はその間も大谷の可能性を疑うことはなかった。

「当然じゃないですか。むしろラッキーだと思ってましたよ(笑)。だって、投げなくて済めば肩、ヒジのためにはいいし......高校時代の大谷くんは速い球を投げることをひとつの目標にしていましたけど、速い球を投げることと肩、ヒジのリスクは表裏一体ですからね。大谷くんには申し訳なかったけど、心の中で『あんまり速い球は投げないでくれ』『甲子園にも出ないでくれ』と呟いてました(苦笑)。実際、試合では投げていませんでしたけど、ピッチング練習はしてましたから、不安はまったくありませんでした」

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