90歳の球友が明かす、根本陸夫「若き日の武勇伝」の真相

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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根本陸夫外伝(後編)

 プロの選手として三流、監督として二流でも、GM(ゼネラルマネージャー)としては天下無双だった根本陸夫。その野球の原点は出身地=茨城県水戸市の旧制茨城中(現・茨城高)にあった。
(前編はこちら>>)

中学時代の球友との付き合いも大事にした根本。球友の息子が大人になっても可愛がった中学時代の球友との付き合いも大事にした根本。球友の息子が大人になっても可愛がった 1927年に創立した茨城中は私立の男子校。戦後には進学校となり、95年からは男女共学となったが、根本が在学した当時は硬派で知られた。同じく茨城県に生まれ、水戸商から西鉄(現・西武)に入団した豊田泰光も「茨中(いばちゅう)の近くは怖くて通れなかった」と述懐しているほど。冬場に寒さがつのると、生徒たちが木造校舎の板を剥がして焚き火をする、という伝説まであった。

 この茨城中時代の根本については、これまでほとんど知られていなかった。が、縁あって面会の機会を得た野球部の同級生で、バッテリーを組んでいた馬目大(まのめ・まさる/90歳)によれば、「1年生からレギュラーで、肩の強いキャッチャーだった」という。

 その一方、資産家の"跡取り坊っちゃん"として育った根本は、幼い頃からわがままでわんぱく、ケンカもよくやったと伝えられている。茨城中では<ひとかどの暴れん坊になっていた>と記す文献もあり、馬目も「根本は学校サボってばかりで2回も落第した」と言うが、〈暴れん坊〉に関してはこう証言する。

「彼はね、ケンカするにしてもちょっと違ってた。他校生とよくケンカがあったんだけど、自分では表に出ないから。腕っ節のいい連中を集めて、うしろで糸を引いてやらせる。ハッタリも利いたし、相手と顔を合わせても、顔はちょっと横にそらす。そうして、目だけ相手に向ける。そういうタイプだったね」

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