90歳の球友が語る根本陸夫「少年時代から見えたフィクサーの才」 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 では、捕手として近鉄でプレーした現役時代は、なぜ「三流」だったのか。

 茨城県出身の根本は、旧制中学の茨城中(現・茨城高)で本格的に野球を初め、転校した日大三中(現・日大三高)で関根潤三(元近鉄-巨人)とバッテリーを組んだ。その後は日本大に進み、東都大学リーグの首位打者になるほど打力もあった。諸事情で東京六大学の法政大に移ると再び関根とバッテリーを組み、ノンプロの川崎コロムビアを経てプロ入りしたのに、そこまで評価が低いのはなぜなのか。

 成績を見れば、1952年に近鉄に入団した根本は、通算186試合出場で打率1割8分9厘、2本塁打、23打点。しかも55年から2年間は出場がなく、57年限りで引退したから実働は4年。数字のうえでは「三流」と言わざるを得ない。ただ、根本自身、数字の中身についてこう語っている。

「実際に試合に出たのは、1年か2年くらいのものでね。入ったときはもう27歳で、当時はコーチなんて存在しない時代だったから、最初からブルペンでピッチャーを見てくれということだったんですよ。ところがレギュラーのキャッチャーが故障してね。その間だけ試合に出た。そういうふうだったから、かなり早い時期からスカウトの仕事はしていたね。嫌いじゃないんだよ、あっちこっち見て歩くのが。どっかから連絡が入れば、当時からパッと飛び出して行っていたからね」

"遅咲き"を期待してというのでもない。選手としての活躍は想像もしていなかったような口ぶり。球団も当初から兼任コーチ的な役割を根本に求め、スカウトの資質があると判断していたようだ。出場がなかった2年間については、ベンチで監督のサポート役を担っていたという。

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