「戦力外通告の男」がメジャー目前に。中後悠平が語る波乱万丈の1年 (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sportiva

 中後は、近畿大学時代から"和製ランディ・ジョンソン"と呼ばれていた左サイドハンドの投手。このフォームが、投手としての個性をつくってきたわけだが、腕を下げたのは中学の頃。最初は投げづらくて、スピードもまったく出なかったが、人と違うフォームが「格好いい」と思うようになって続けていると、ただ下げていただけの腕が体に絡み始め、ヒジから先が走るようになった。

 近大新宮高から近畿大に進むと、球速は150キロに達し、ドラフトの注目選手のひとりとなった。そして2011年のドラフトでロッテから2位指名を受けて入団。当時の思い出話をしているとフォームの話題になった。

「プロに入ってから腕の出どころが少しずつ上がって、今年がいちばん上がっていたと思います」

 そう言うと、中後は「見ます?」とスマートフォンを取り出した。そこには3Aのリノ・エーセズで投げる自身の映像が映っていた。

 相手打者は、そのときマリナーズ傘下3Aのタコマ・レイニアーズに降格していた青木宣親。9月3日に行なわれた試合だったが、たしかにイメージにあったフォームよりも腕が上がっていた。印象的には、同じダイヤモンドバックス傘下から巨人に入団し、リリーフとして活躍を続けている山口鉄也に近い。本人曰く「ロースリークォーター」ということだが、球も強く、以前よりもスケールアップした印象を受けた。

 ロッテでの4年はあっという間に過ぎた。1年目は開幕戦に登板するなど、6月途中までに27試合に投げた。しかし、肩の痛みから夏前に戦線離脱。腱板部分断裂で後半戦は治療とリハビリに費やした。2年目、3年目はともに5試合だけの登板に終わると、4年目は一軍登板なし。オフに戦力外通告を受けた。

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