傷だらけのドラフト1位が、人気球団の重圧から解放されて思うこと (2ページ目)

  • 取材・文:元永知宏 Text by MOTONAGA TOMOHIRO
  • photo by Kyodo News


──愛知県の弥富高校(現・愛知黎明高校)に進みましたが、甲子園出場経験はありません。九州共立大学に進んでからドラフト候補として騒がれるようになりました。

「大学では1年春から試合に出るチャンスをいただきました。初体験の木のバットに戸惑いながら練習していましたね。柴原洋さん(元・福岡ソフトバンクホークス)が4年生にいて、『こんな人がプロに行くんだろうな』と思いながら。自分とはあまりにも差がありすぎたので『俺も!』とは思えませんでしたが、基準はできました。プロに行きたいなら、柴原さんのレベルまで行かなきゃいけない......と」

──九州共立大は96年の大学日本選手権で準優勝。的場さんは98年春にリーグの首位打者となり、その年のIBAFワールドカップ日本代表に選ばれます。99年の春季キャンプでは、プロアマ交流で中日の練習に参加。初めてプロ野球に触れてどう感じましたか。

「プロのスター選手と一緒に練習させてもらって、すごく自信になりました。星野仙一さんが監督で、同学年の福留孝介とショートでノックを受けて。守備に関しては『やれる』と思いましたね。でも、バッティングは一軍半の選手でさえ力強さが全然違ったので、相当な努力が必要だろうと覚悟しました。このときに感じたのは、プロ野球選手には、技術はもちろん、練習に耐えられる体力が必要だということ。本当に体が強い選手が1億円もの年俸を稼ぐんだなと」

──99年のドラフトには、逆指名制度(大学・社会人選手は1球団2名まで自分の希望球団を宣言できる)がありました。そのなかで、阪神、中日、西武、近鉄が的場さんの獲得を目指します。

「当時の中日の星野仙一監督からも直々にお誘いいただきましたが、悩んだ末に阪神に決めました。担当スカウトの永尾泰憲さんの熱意に応えたいと思ったからです。春先には阪神にお世話になろうと決めていました」

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