2015.09.21

【根本陸夫伝】
試合中にもかかわらず下柳剛を延々と説教した男

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Kyodo News

【人物紹介】
根本陸夫...1926年11月20日、茨城県生まれ。52年に近鉄に入団し、57年に現役を引退。引退後は同球団のスカウト、コーチとして活躍し、68年には広島の監督を務める。監督就任1年目に球団初のAクラス入りを果たすが、72年に成績不振により退団。その後、クラウンライター(のちの西武)、ダイエー(現・ソフトバンク)で監督、そして事実上のGMとしてチームを強化。ドラフトやトレードで辣腕をふるい、「球界の寝業師」の異名をとった。1999年4月30日、心筋梗塞により72歳で死去した。

下柳剛...1968年5月16日、長崎県生まれ。瓊浦高から八幡大(中退)、新日鐵君津を経て、90年ドラフト4位でダイエー(現・ソフトバンク)に入団。94年には62試合に登板し、自身初の2ケタとなる11勝をマーク。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。97年から3年連続して60試合以上の登板を果たすなど、中継ぎ投手として活躍。02年オフにトレードで阪神に移籍すると、03年に10勝、05年には15勝をマークし、史上最年長の最多勝投手となるなど、2度のリーグ優勝に貢献。11年オフの自由契約を経て、12年は楽天でプレーするも同年オフに戦力外となり、13年3月に現役引退を表明した。プロ通算成績は627試合に登板し、129勝106敗22セーブ。

権藤博...1938年12月2日、佐賀県生まれ。鳥栖高からブリヂストンタイヤに入社し、61年、中日に入団。1年目から2年連続で最多勝を獲得。連日の登板から「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語も生まれた。しかし、過酷な登板から肩を痛め、31歳の若さで現役を引退。73年より中日で投手コーチを務め、リーグ優勝に貢献。その後、近鉄、ダイエー、横浜でコーチを務め、98年に横浜の監督に就任。1年目に38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた。12年には再び中日のコーチに就任するなど、多くの投手を育ててきた。プロ通算成績は210試合に登板し、82勝60敗。

渡辺正和...1966年4月12日、佐賀県生まれ。佐賀西高から筑波大、東京ガスを経て、92年のドラフトでダイエー(現・ソフトバンク)から5位で指名され入団。1年目から先発投手として期待されるも結果を残せず、翌年から中継ぎに回る。00年に60試合に登板し、優勝に貢献。その後も「勝利の方程式」の一角を担うが、03年に戦力外通告を受け、現役を引退。現在は福岡大野球部の監督を務めている。プロ通算成績は264試合に登板し、15勝9敗1セーブ。

池田親興...1959年5月17日、宮崎県生まれ。高鍋高から法政大、日産自動車を経て、83年のドラフトで阪神から2位指名を受け入団。84年はルーキーながら9勝を挙げる活躍をみせ、翌年は開幕投手を任される。9勝ながら1年間ローテーションを守り、優勝に貢献。西武との日本シリーズでは第1戦に先発して完封勝利を飾る。91年にトレードでダイエー(現・ソフトバンク)に移籍。94年にダイエーを自由契約となり、95年にヤクルトに移籍するも同年限りで現役を引退。プロ通算成績は277試合に登板し、53勝69敗30セーブ。

ブライアント...1961年5月20日、アメリカ生まれ。85年に中日と契約し、来日。88年6月に金銭トレードで近鉄に移籍すると、1試合3本塁打を2度記録するなど、74試合で34本塁打を放つ。翌89年は天王山の西武戦ダブルヘッダーで1試合3本塁打を含む、4本のアーチを放ち、優勝の立役者となった。その後も近鉄の主砲として活躍するも、95年にケガにより一軍登録を抹消されると、その年限りで自由契約となった。翌年、アメリカに戻り、メジャー傘下のチームでプレーするもその年限りで現役を引退。日本での通算成績は打率.261、259本塁打、641打点。

山下和彦...1962年11月29日、大分県生まれ。柳ケ浦高から新日鐵大分を経て、84年のドラフトで近鉄から4位指名を受け入団。2年目から出場機会を増やし、89年には113試合にマスクを被り、優勝に貢献。ベストナインに選ばれた。しかし、その後は出場が減り、95年に日本ハムに移籍。98年に現役を引退した。その後は横浜(現・横浜DeNA)や近鉄などでコーチを務め、10年からDeNAのコーチを勤めている。通算成績は打率.218、30本塁打、159打点。

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