元チームメイトが語る「控え投手時代の黒田博樹」 (2ページ目)

  • 田沢健一郎●文 text by Tazawa Kenichiro
  • photo by Kyodo News

 そしてこのたび、メジャーから8年ぶりに広島に復帰した黒田博樹も、上宮高(大阪)時代は一度も背番号1をつけたことがない。

 当時の上宮は、全国屈指の選手層を誇る強豪校。黒田が2年生時、背番号10で登録された1991年の春季近畿大会のメンバー表を見ると、ベンチ入り17名のうち、実に7人が後にプロ野球入りしている。

 3年生ではエース・薮田安彦(元ロッテ)の他、一塁の久保孝之(元ダイエー)、遊撃の市原圭(元ダイエー)、中堅の中村豊(元阪神)。黒田と同じ2年生ではライトの筒井壮(元中日)、背番号13をつけていた西浦克拓(元日本ハム)が後のプロ野球選手である。また、1学年下は最上級生の時にセンバツ優勝に輝いた世代。エースの座を奪うのは並大抵のことではなかった。

 ただ、2年春で背番号10をもらっていたように、黒田は次期エースとして期待されていた。しかし、新チームになって臨んだ秋は西浦が、3年生の春と夏は溝下進崇(現・大阪ガスコーチ)が背番号1を背負った。高校最後の夏となった大阪大会で黒田は登板なし。上宮は準々決勝で敗れるが、この試合で投げたのも西浦と溝下だった。

 当時の新聞や雑誌を読むと、黒田がエースになれない原因について、精神的な弱さを指摘する内容が目立つ。速球にスライダー、いいボールを持っていたが安定感に乏しく、苦しい展開になると四球を連発......。いったい、黒田はどんな高校球児だったのだろうか。

「いい人。黒田さんの思い出というと、優しくていい人という印象が、まず浮かんできます。上下関係が厳しい時代でしたが、黒田さんは私ら下級生が困っていると助け船を出してくれた」

 そう話してくれたのは、当時、黒田の1学年下だった牧野光将だ。牧野は高校3年のセンバツ、背番号9ながらエース格として奮投し、センバツ優勝に大きく貢献。その後は近大、大阪ガスで本職である外野手として活躍した。

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