二面性の男・金子千尋。高校時代のあるエピソード (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • 小池義弘●写真 photo by Koike Yoshihiro

 そして試合は、延長10回表に勝ち越され、春夏連続出場は断たれた。しかし、この悔しさが金子を成長させることになる。2年秋、新チームになってからの金子の変化について、矢野氏は次のように語る。

「選手が育つには本人の資質はもちろん、そこに意欲、体力、コーチングが必要になってきます。金子は実力があることはわかっていましたが、下級生の頃は意欲と体力がなかった。それが、2年夏に決勝で負けてから意欲の部分が備わった。練習への取り組み方も変わったし、それによって体力がついてきた。3年になってからは打たれる感じがしませんでした」

 新チームになり、背番号1を背負った金子のボールはさらにキレと精度を増した。山寺氏は言う。

「3年になると、相手がストレートを狙い打ちしてきてもボールにかすらない時が何度もありました。球速は135キロぐらいだったと思うのですが、とにかくスピンが効いている。それにコントロールも抜群。本当にベースぎりぎりを狙って、そこに投げ込んでくる。見逃しの三振も多かったですよ」

 3年春は長野大会を制し、北信越大会でも準優勝するなど、最後の夏は大本命として迎えた。初戦(2回戦)で7回参考記録ながらノーヒット・ノーランを達成すると、その後も順調に勝ち進み、甲子園まであと2勝。しかし、準決勝の塚原青雲戦で12奪三振の好投を見せるも0-2で敗れ、金子の高校野球生活は終わった。

 進路については、大学、社会人から多くの誘いがあったが、山寺氏は矢野氏とも相談しながら社会人の道を金子に提案した。

「もし大学に行っていれば、球速もそこそこ出て、コントロールもいいですから、すぐに使われる可能性がある。でも、体もできていなかったですし、何よりケガをするのが怖かった。それなら社会人のほうがいいと思ったんです」

 結局、山寺氏の大学時代の先輩にあたる川島勝司が当時監督を務めていたトヨタに行くことになった。その直後、矢野もコーチとしてトヨタの指導に関わることになり、金子がプロに入るまでを見届けた。

 プロ入り後の活躍はあらためて触れるまでもないが、かつては“文学青年”や“のび太くん”と呼ばれていた野球少年の成長曲線をたどると、いかにも金子らしさが漂ってくる。そんな感想を山寺に向けると、こんなエピソードを教えてくれた。

「3年の夏が終わった頃です。掃除の時間にある女子生徒が私に、『先生、金子選手って彼女いるんですか?』って。『どうかな、もしかしたらいるかも』って答えたんです。よく見ると、言ってきた女子生徒は金子と同じクラス。だから、『お前たちの方が知っているだろ』と。そうしたら『あの金子くんじゃないですよね?』って言うんです(笑)。つまり、野球部のエースの金子と、クラスの金子は別人だと思っていたそうなんです。まあ、ウソみたい話ですけど、それくらい普段とマウンドの姿は別人。金子らしい話だと思って、今も頭に残っているんです」

 こうしたギャップは、球界のエースとなった今の姿にも通じる部分がある。それもまた、金子千尋の魅力なのだろう。

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