現役最後の日、稲葉篤紀が流した涙の本当の理由 (3ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Isida Yuta
  • 小池義弘●写真 photo by Koike Yoshihiro

ホークスと戦った福岡でのファイナルステージでも、稲葉は第5戦、0-4と敗色ムードが漂う7回のツーアウト一塁から、代打で登場。センター前へヒットを放って後続につなぎ、まさかの逆転勝ちを呼び込んだ。

 巧みなバットコントロールで、やわらかくボールを運ぶ稲葉の技術は、ヒットを打つのをいかにも簡単に見せる。栗山監督もこう言っていた。

「すごいよね。簡単にヒットを打ってる……いや、もちろん簡単ではないんだろうけど、そう見せているところに、あれだけたくさんのヒットを打ってきた稲葉の凄みを感じるよ」

 ファイターズの誰もが「稲葉さんと一緒にもっと野球をやりたい」と口にしながら、負けたら終わりの戦いに臨んでいた。そうした精神的な支柱になっていたのはもちろん、戦力としても、稲葉は最後まで頼りになっていたのだ。

 じつは、バッターボックスの稲葉が決まってみせる“ある仕草”が気になっていた。

 初球を見送った後、左手で、左ヒザの上あたりを、パーンと叩いている。

 稲葉の左ヒザといえば、今年の4月、関節の軟骨損傷に伴う手術を受けたところだ。まるで「もう少し、あと少しだけ、頑張ってくれ」と、痛む左ヒザに言い聞かせているように見えた。

 そのことについて稲葉に訊くと、彼は照れ笑いを浮かべながら、こう言った。

「痛いから叩いているんじゃなくて、左ヒザにしっかり力を入れて、踏ん張れるようにと思ってね。左ヒザに意識を置くことで、いいバッティングができているんです」

 左に意識を置くんだ――。

 稲葉はそう言い聞かせながら、バッターボックスで戦っていた。

 もうこれで引退するから、これが最後だからと感傷的になる前に、ひとりのバッターとして、最後まで自らを奮い立たせていたのだ。

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