坪井智哉「死に場所を探しにアメリカに行ったんです」 (2ページ目)

  • 村瀬秀信●文 text by Murase Hidenobu
  • 甲斐啓二郎●写真 photo by Kai Keijiro

 現役時代、坪井の表情はいつも厳しかったような記憶がある。

 理想の打撃を追い求める求道者にして、コーチの言うことなどまるで聞かない風の職人気質な練習の鬼は、グラウンドでは常に近寄り難い雰囲気を醸(かも)し出し、日が暮れても納得するまでいつまでもバットを振り続けていた。

 修験者の如き練習で酷使された身体は坐骨神経痛などで満身創痍。とある霊験あらかたな先生に身体を見てもらった時などは「あなた、身体にどれだけ無理させるつもり! どれだけ頑張らせるの!」と何かを見てしまった先生がボロボロ泣きながら激怒するほど、己の野球技術の研鑽(けんさん)のため身体を追い込み、突き詰めていた。表情が厳しくなったのも当然だろう。

「まあ、やり切ったんだろうと思いますよ。引退したらどうせまた野球をやりたくなるんだろうなぁ......と覚悟はしていたんです。だけど、日常の中で、いや球場で野球を見たとしても"やりたい"という気持ちがまったく起こってこない......やりきったんでしょうね。最後はアメリカで寝床を犬に奪われるところまで野球をやりきった(笑)。『これだけやったらそりゃね』と納得してくれたんじゃないでしょうか」
 
 坪井の野球人生は、そのキャリアの後半。それこそ冒頭にあげた坪井の輝かしい経歴とは真逆の波乱に富んだ出来事が待っていた。
 
 最初の大きな事件は2006年10月だろうか。ファイターズが北海道移転後初優勝を遂げたその翌日。坪井はまさかの"クビ"になった。その年の坪井は故障で出場わずか25試合とはいえ、前年までは100試合出場で3割を記録した主力である。そんな選手が解雇となっただけでも驚いたのに、さらに獲得球団がないと見るや日本ハムがまさかの大幅減俸での再契約を申し出る。その屈辱たるや想像に難くないが、坪井はわだかまりをグラウンドに持ち込まず、ケガと戦いながら代打の切り札として活躍。2010年のシーズン終了を以て引退とコーチ就任の打診を受けるも、坪井はこれを固辞した。

「ボロボロになるまでプレイヤーでいたいという一心で決断しました」

 異例の退団会見でそんな決意を述べて現役を続行。翌11年はオリックスへ移籍を果たすも一軍出場わずか3試合で解雇された。

 それでも坪井は辞めなかった。好条件でフロント入りの話もあったが、それも辞退して2012年シーズンは、かねてから考えていたというアメリカへ渡り、若者に交じって独立リーグでプレイすることを選択した。

「うーん、憧れ......というわけでもないんですけどね。『いつかアメリカに......』という気持ちはずっとありました。なんだろう。38歳で大手を振ってメジャーに挑戦します......っていうのも違う。僕だってバカじゃないですよ。自分自身、野球選手としての死に際が近づいてきていることはわかっている。死に場所っていうのかな。猫の死に際みたいにひっそりとどこかに隠れて......じゃないけどね。その最後が野球の"はじまりの地"であるアメリカというね。そんな漠然とした希望があったんです。それに最後の最後、1打席だけでもメジャーの打席に立ってみたい。それだけを思って渡米したんです」

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