【根本陸夫伝】広島を球団初のAクラスに導いた男 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Nikkan sports

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 その山内を、根本は春季キャンプから"有効活用"した。キャンプ中、衣笠をはじめとした若い選手を何度も集め、その場に山内を連れてきては、「君たちがこの選手を超えないと、カープは優勝できない」と言い続けた。

「山内さんはご自身の練習をやるだけでしたが、我々よりはるかに練習されていました。いいお手本、いい教材を目の前に置いていただいたと、今でも思います。我々からしたら、2000試合近く出場されて、2000本安打も打っておられて、すべてのタイトルを獲られた大選手が『まだこんなに練習するんだ』というのは本当に驚きでした。特に、これだけの成績を残された方がこんなに頑張るってことは、バッティングってそんなに難しいものなのかと。それをキャンプで見せてもらったのは、本当にいい勉強になりました」

 必然的にキャンプでの練習は激しく、厳しいものになった。根本はまず、選手たちが猛練習に耐えられるだけの体力をつけるために、1時間のランニング、長い時間をかけてのキャッチボールを課した。「技術の前に必要なのは体力だ。まずは体力をつけてから、次のステップにいく」というのが、根本の考えだった。

 ランニングに関しては、広島大学で体育学を専攻していた川村毅教授を呼び寄せ、指導にあたらせた。いわば"陸上競技の専門家"だった川村教授は、その頃主流だったサーキットトレーニングを採り入れ、徹底的に選手たちを鍛えた。

 そもそも、分野の違う人材がプロ野球の選手を指導すること自体、珍しかった。幅広い人脈を持つ根本らしい、先進的な取り組みだったといえる。

 一方で、トレーナーの矢作義孝を近鉄から呼び寄せると、選手たちの健康管理を一任した。衣笠によれば、キャンプ中も門限の厳守が通達され、食事も改善。また、アルコールや長時間座る麻雀も禁止されたという。

若手らの活躍で巨人とも互角の勝負を演じる

 広島では初の"外様監督"としてキャンプ中から注目された根本は、マスコミに「カーブの若親分」と名づけられた。戦後の闇市の時代、硬派学生として東京・渋谷で暴れ回り、界隈のヤクザに一目も二目も置かれる存在だったという「経歴」も、そんなニックネームにつながっていた。

 そして幕が明けた1968年シーズン。新生カープは4月を10勝6敗1分と好スタートを切った。開幕戦で5番に抜擢され、3番・山内、4番・山本一義とともにクリーンアップを形成した衣笠は語る。

「開幕は岡山での阪神戦、先発は村山実さんでした。じつは、プロ初本塁打は村山さんから打ったこともあって、期待していたんです。1本ぐらい打たせてくれないかなって(笑)。まあホント、若いし、甘い頃ですよ。結果、4打数ノーヒットで次の試合は出させてもらえませんでした。それでも根本さんに期待してもらって、チャンスをたくさんいただいた中で必死にやりました」

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