68歳の打撃投手。ロッテ・池田重喜の裏方人生 (2ページ目)

  • 高森勇旗●文・写真 text&photo by Takamori Yuki

 肩痛と闘いながらも、1976年から選手兼任コーチとなり、打撃投手を務めるようになる。翌年は選手に専念すると決めるも、オープン戦を目前に控えた2月のある日、当時の金田正一監督の命令により突如ピッチングコーチ補佐に就任。その年限りで現役を引退しコーチ専任となるが、1978年の暮れ、翌年から監督に就任する山内一弘氏の意向により、トレーニングの勉強に励んだ。

 1980年に日本体育施設協会認定トレーニング指導士の資格を取得するとトレーニングコーチに就任。それから17年間、トレーニングコーチとして選手たちの体をケアしてきた。だが、その間も打撃投手だけは続けてきた。池田が振り返る。

「必死に頑張って投げ続けてきて、裏方に回った時は何をしていいかわからなかったよ。突然、金田さんにコーチになれって言われて、悔しい思いをグッとこらえて、選手たちのために何をすべきか考えていました。当時は今みたいにスタッフが多くないから、最初は"なんでも屋"だったね。ピッチングコーチにトレーニングコーチ、打撃投手、ブルペンキャッチャー、用具係......それに1978年までは選手登録もしていたから、二軍の試合で選手が足りない時は外野手として出場していました。今では考えられないけどね(笑)。コーチ専任になってからも、打撃投手だけはずっと続けてきた。38年間も投げ続けてきたからね。おそらく、バッターに投げた数だったら世界一多いんじゃないかな」

 38年――池田は笑いながらさらっと振り返った。しかし、その長い年月の間には数多くのスターが生まれ、ロッテの歴史を築き上げてきた。

 榎本喜八、有藤通世、落合博満、さらには野村克也、江藤慎一、張本勲......といった伝説の選手たち。とりわけコントロールの良かった池田は、彼らに好まれた。

「彼らのようなスター選手は何が凄いって、同じところに10球投げたら9球はホームランを打つよね。それも同じ軌道で。ファウルなんて絶対に打たない。ゴロやポップフライもなし。ホームランか、打ち損じたとしてもライナー。そんな世界だった」

 伝説のスター選手から二軍選手まで、今でも投げ続けている。長きにわたって投げ続けてきたからこそわかる、一流打者の共通点とは何なのだろうか。

「いいバッターというのは、"間"があるんだよ。オレの指からボールが離れた瞬間、もう準備ができているよね。ボールをとらえるまでの間がゆったりと取れている。やっぱり、入ってきたばっかりの選手っていうのは、間が短いよね。練習でも、ちょっとポイントがずれたら打ち損じてしまう。いいバッターはとにかく軸が動かないし、すごくボールを見ている感じがこっちにまで伝わってくる。練習では、打つポイントをきっちりと確認している、そんな風に見えるかな」

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