【根本陸夫伝】新生・西武ライオンズを関東に根付かせた大胆な広報戦略 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • 益田佑一●写真 photo by Masuda Yuichi

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 クラウンの監督だった根本は、西武の監督に就任すると同時に球団管理部長に任命されていた。すなわちコーチ陣の編成から新人のスカウト、トレード、外国人選手の獲得、契約更改の査定に至るまで、チーム作りのあらゆる部門に権限が与えられていた。とりわけ、1978年のオフに目立ったのは大型トレード。阪神の田淵幸一、古沢憲司、ロッテの山崎裕之を獲得し、さらにロッテからは45歳になる野村克也が加入した。

「確かに顔ぶれはすごかった。いつもテレビで見ていた田淵さんがいて、ノムさん、山崎さんがいて、土井正博さんがいて。当時のパ・リーグって、ほとんどテレビに映らなかったけど、ノムさんはよく見ていたからね。こんなすごい人たちと一緒に野球できるんだ、と思いましたよ。でも、そのためにすごい選手を出している。真弓明信、若菜嘉晴をはじめ、『さあ、これからだ』っていう若い選手を出して、スター選手を獲ったわけ」

 根本には、「東京、首都圏に来た以上はマスコミを利用しなくちゃいけない」という方針があった。そのための「顔」が田淵であり、野村、山崎であり、目玉選手だったのだ。

「スターであってベテラン。特にノムさんは最年長で、動けない、投げられない。ただ、これはもうわかって獲っているわけで、だいたい、南海ではプレイングマネージャーだった人ですから。実際、根本さんは『野村、ちゃんと指導も頼むよ』と言っていたし、そういう面は、うまく利用していたと思いますよ」

 一方で根本は、森繁和とドラフト外で獲った松沼博久・雅之の兄弟を合わせたルーキー3投手もひとつの売りにしていた。記念すべき1979年のオープニングゲームは4月7日、日生球場での近鉄戦。開幕投手は東尾修が務め、早くも2戦目に森が先発でプロ初登板。松沼兄もローテーションに入っていた。

「でも、いざ始まってみたら弱かったね(笑)。開幕12連敗とか......。『アマチュアより弱いんじゃないか?』っていうチームだった。根本さんも、特に選手たちを束ねてまとめようとしていなかったし、監督としてはとんちんかんなところもありましたよ」

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