死後15年。今も野球界に色濃く残る「根本陸夫の遺産」 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Nikkan sports

無料会員限定記事

 だが、2013年のパ・リーグの状況にはおよばない。なにしろ6球団のうち半数の監督が現役時代に同じチームでプレイし、なおかつ全員が日本一を経験しているのは史上初のケースだったのだ。

 渡辺はCSで敗退した後に退任したものの、代わって復帰した伊原春樹も常勝西武でコーチを務めた元監督。2002年には、チームをリーグ優勝に導いている。

 それほどに今、西武の黄金時代の野球を熟知した指導者が求められている、と言ってもいいのではないだろうか。そして、その黄金期は、ひとりの野球人なくして築かれなかった。

 根本陸夫――。

 1950年代、近鉄の捕手だった現役時代は、実働わずか4年で輝かしい実績もない。それが引退後にスカウト、コーチとして経験を積むと、68年から広島の監督に就任。自身は72年のシーズン途中、成績不振から休養、そのまま退団となったが、山本浩二、衣笠祥雄、三村敏之らの若手を鍛え上げ、のちの75年に初優勝を成し遂げた"赤ヘル軍団"の基礎を固めた。

 その後、78年に根本はクラウンライターの監督に就任。シーズン終了後に国土計画の堤義明社長(当時)が球団を買収し、西武ライオンズへと球団名が変わった。根本はそのまま監督として残留し、西武の初代監督となった。

 西武監督時代は管理部長(GM)も兼任し、球団代表の坂井保之、スカウト部長の浦田直治らとともに西武の骨格を築いていった。78年のドラフトでは森繁和を1位で指名し、阪神から田淵幸一、古沢憲司、ロッテから山崎裕之をトレードで獲得し、自由契約となっていた野村克也を入団させた。

 西武1年目の79年こそ最下位に終わったが、翌80年は後期ペナントレースで優勝争いを演じた。その年のドラフト会議では、石毛宏典、岡村隆則、杉本正、安倍理を指名し、ドラフト外で秋山幸二を獲得。根本は81年で監督を退任し、管理部長に専念。後任監督に広岡達郎、ヘッドコーチにのちの監督となる森祇晶を招聘。根本の後を継いだ広岡は82、83年と2年連続して日本一を達成し、85年もリーグ制覇。その後、86年から監督に就任した森も9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一を達成するなど、黄金時代を築いた。

全文記事を読むには

こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録よりメンズマガジン会員にご登録ください。登録は無料です。

無料会員についての詳細はこちら

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る