バレンティンが語った「60本塁打、イチロー、そして......」

  • ブラッド・レフトン●text by Brad Lefton

 波乱のオフを過ごしたバレンティンだったが、その一方で、もうひとつ忘れられない出来事があった。

 シーズン終了後、自宅のあるマイアミで1カ月の休養をとった後、母国のキュラソー島で本塁打の日本記録を達成したバレンティンの歓迎パレードが行なわれた。島の人口の約5分の1にあたる3万人もの人がパレードに来たという。なかでもバレンティンを喜ばせたのが、同島出身で現在、楽天でプレイするアンドリュー・ジョーンズからの祝杯だった。ジョーンズは、アトランタの自宅からプライベートジェットでパレードの主役であるバレンティンをマイアミまで迎えに行き、そしてキュラソーへ飛んだ。

 バレンティンより7歳年上のジョーンズは、バレンティンにとっての憧れの選手だった。バレンティンが14歳だった1998年、ジョーンズはアトランタ・ブレーブスで30本塁打を放ち、10年連続で獲得したゴールドグラブ賞を初めて受賞した。その後、2009年にアメリカン・リーグ西地区でライバル(※)となった時から交流が始まった。ジョーンズが昨年から楽天でプレイするようになり、ふたりの仲はより深まった。

※2009年、バレンティンはシアトル・マリナーズ、ジョーンズはテキサス・レンジャーズでプレイ

 49年ぶりの大記録達成に驚きと敬意の念を抱いたのは、同島出身のスーパースターだけではなかった。イチローもそのひとりだった。イチローとバレンティンは、かつてシアトル・マリナーズで3シーズン一緒にプレイしていた。その当時のバレンティンは、イチローがよく見たような、自分の才能を発揮できずにメジャーとマイナーを行ったり来たりしている若手選手だったが、イチローはその才能を高く評価していた。だから、バレンティンが日本で才能を開花させたことは、イチローを感動させた。

「日本では、カウント3-1とか2-0のバッティングカウントでも変化球でストライクを取りにくる。そこで『何だ、日本の野球は』と思う選手は、絶対に前に進めない。バレンティンの場合は、ちゃんとそれを受け入れて、そういう野球があるということを理解してプレイしていたのではないか。そこは技術とは関係のない性格によるものだろう。ある段階から先に進めるかどうかはそれを持っているかどうかで大きく分かれるのではないか」

 バレンティンはにっこりしながら、元チームメイトの言葉に耳を傾けた。そして、この3年間でどのように日本の野球に対応してきたかを次のように語った。

「1年目は、イチローが言うように、いつもアメリカ的な待ち方をして、カウント3-1や2-0の時は直球を待っていました。しかし、日本の投手はそういうカウントでスライダーなどの変化球を投げてきたのです。最初はすごく戸惑いましたし、腹が立ったこともありました。その結果、ホームランは31本打てましたが、打率は.228しか残せませんでした。この経験を生かそうと、何度も自分に『今、オレは日本にいて、日本の野球に順応しなくてはいけないんだ』と言い聞かせました。また、『成功するただひとつの方法は、この環境に慣れること』とも。それからは、3-0から変化球が来ても驚かなくなりましたし、集中して打席に入れるようになりました。来日2年目あたりから手応えを感じ、去年はさらに辛抱強く待てるようになりました。それにピッチャーがどのように投げてくるのかを学ぶようになり、より確率の高いバッティングができるようになりました」

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