松井裕樹だけでなく......。甲子園で輝いた「背番号1」のプライド (4ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 坂東はそう言ったが、じつは駒大苫小牧の田中は、早実との決勝、決勝再試合ともに、先発していない。最初の試合は3回途中から、再試合では1回の途中でマウンドに登っているが、田中はいずれの試合も二番手のピッチャーだった。一方の斎藤は、2006年夏の甲子園、すべてのアウトをひとりで奪ってはいるが、正確には1回戦の鶴崎工戦では13-1とリードした9回、いったんマウンドを二番手に譲っている。しかし代わったピッチャーがストライクを投げることができず、斎藤が再び登板、後続を断った。夏の甲子園が49代表になってから、優勝投手の中で最も多くの球数を投げたのがこの夏の斎藤だったのだか、その数、なんと948球。投球回数の69も歴代最多ではあるが、そんなわけで斎藤はひとりで投げ抜いてはいない。そのエピソードを知らされて、板東はこう言った。

「僕にもありました、そういうことが……新チームになって、秋の大会だったかな。いったん交代したんです。でも、代わったピッチャーが打たれてピンチになったところで、また僕に代わって、そこで僕が抑えて勝った。確か、そんなことがありましたね。でも、それからは代わるつもりがなくなりました。代わることが頭になくなって、後のピッチャーのことを考えなくなりました」

 実際、板東はこのチームの押しも押されもせぬエースだった。

 2年春、夏の甲子園を控えのピッチャーとして経験。新チームでエースナンバーを背負ってからも、3年春、夏と続けて甲子園に出場。春に1勝、夏の甲子園では3試合連続完投勝利をマークし、鳴門を63年ぶりのベスト8に導いている。そのときのチームにいた2番手投手は1年生。鳴門の森脇実監督は「実質、板東ひとりのチームだった」と話す。

「他にいなかったんです(苦笑)。ピッチャーはたくさんおるに越したことはないんですけど、ウチは公立ですし、何人も同じレベルのピッチャーを揃えるとなると、厳しい面があります。板東にしても、背番号1をつけたばかりの頃はよく打たれましたよ。ただ、打たれるということはコントロールがあるということですから、実戦で低めに放れということを徹底させてきました。それでも4、5点は取られるピッチャーでしたし、野手には『打ち勝て』『5点以上は取れ』と言い続けていました。その一方で、板東には『ピッチャーというのは、何点取られても勝てばいいんだ』『10対9で勝っても、9点取られたピッチャーもインタビューされる』『勝っても負けても、注目されるのがピッチャーなんだ』『だから責任も重いし、その分、おもしろいんだぞ』と、板東がピッチャーになり立ての頃、なかなか自信の持てない彼にそんな話をした記憶があります」

 とはいえ、板東は目立ちたいという性格ではない。しかし、ピッチャーとはそれほど大事なポジションなんだということを理解すれば、責任は背負うタイプだった。森脇監督は板東の責任感に期待して、そんな話をしたのである。

「公立に、10人もピッチャーがいるわけがない。その分、責任は重いと思います。たくさんいれば、競争はするかもしれませんけど、責任感が育つのかなと……エースが故障でもしたら、チームが潰れる。ということは、いろんな面で気をつけなければならない。自分のために頑張るだけじゃなくて、みんなのためにも頑張るようになる。だから僕は、ピッチャーは各学年にひとりずついるのがいいんじゃないかと思うんです。僕は板東に言いましたからね。『おまえが投げれんようになったらこのチームは終わりだ。おまえがひとりで投げ切れ』と……」

 板東は、次第にその責任を理解していった。

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