山﨑武司「プロ初ヒットを打った時を思い出していた」 (2ページ目)

  • 阿部珠樹●文 text by Abe Tamaki
  • 日刊スポーツ●写真 photo by Nikkan sports

 入団3年目から一軍の試合に出場することになったが、規定打席に到達したのは入団10年目のシーズン。遅咲きだった。その年に松井秀喜と争って本塁打王を獲得すると、以後、ドラゴンズの中核としてチームを支える。遅咲きの選手はサバイバルの知恵に長(た)けていて、首脳陣とはうまくやっていけるものだが、山﨑は決しておとなしい選手ではなかった。不調でスタメンを外され、復帰した日に本塁打を打つと、「オレを出しておけば打つんじゃ!」とベンチに向かって言い放ったこともある。遠まわしに不調を指摘した監督に対して、「はっきり悪いって言え!」と不信感を示したこともある。首脳陣からすれば、決して扱いやすい選手ではなかった。

「反骨精神の塊(かたまり)みたいなものでしたから。『こんな状態じゃ試合には使えない』と言われると、闘志が湧いてきた。テレビドラマじゃないけど、やられたらやり返すって気持ちでずっとやってきました。相手投手だけじゃない。監督にだってそういう気持ちで向き合ってきました。ただ、怒りや不満をグラウンドの外まで持ち出すことはありませんでした。その切り替えは、しっかりできていたと思います」

 選手生活には何度か転機があったが、もっとも大きい転機は、ドラゴンズのあとに行ったオリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)で戦力外通告を受けた2004年の秋だ。首脳陣との対立から二軍落ちを経験し、野球そのものへの意欲も失せる中で、周囲の勧めを受け入れて、新規参入の楽天イーグルスに参加した。

「ドラゴンズでホームラン王になったとき、年俸が3000万円から1億5000万円になったんです。それで世界が変わりました。成績を出せばこんなにもらえるんだということが意欲になったし、生活も変わった。大好きなスーパーカーをキャッシュで買ったこともありました。そういう生活が続いていたんで、オリックスの時はもう6月ぐらいから、『野球を辞めて、次はなにをしようかな』と考えていました。野球はもういいんじゃないかって。でも、バッティングは崩れていないし、まだ打てる自信もあった。このまま終るのも悔しい。それで一度リセットして、イーグルスでやろうと決めたんです」

 山﨑は男気のある一本気な昔かたぎの選手に見える。もちろんそうした面もあるのは確かだが、一方で、年を重ねても新しい技術を求め、自分のものにする柔軟さも持ち合わせていた。

「イーグルスの1年目、ダメだったら名古屋に帰ってこようと思っていました。ホームランの出にくい球場で、それまでの打ち方だったら成功は難しい。それで思い切って打撃改造をしたんです。一から作り直しました。それまでは比較的前でボールをさばく打ち方だったんですが、そうではなく、右足を軸にしてしっかりボールを呼び込んで回転する打ち方にした。ところがそれをやると、とにかく詰まる。最初の頃は詰まってばかりで......どうにもならない。それが6月ぐらいから詰まっても打球が飛ぶようになり、変化球にも対応できるようになったんです」

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