バレンティン「56号」狂想曲、もうひとつの物語 (3ページ目)

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya
  • photo by Nikkan sports

 神宮のライトスタンドで40年以上ヤクルトを応援し続けている、一野瀬正太郎さんは寂しそうに話す。

「バレンティンには1本でもいいから抜いてほしい。うちは最下位だから、ホームラン記録を作ればヤクルトファンにとって誇りじゃん。でも試合に勝って打ってほしいナァ。大量リードされてのホームランじゃ武士の情けで打たせてもらったみたいだからさ」

 バレンティンは広島先発の大竹寛の前に、「力が入ったぶん、ゴロになってしまった」(バレンティン)と最初の2打席はショートゴロに倒れていた。そして6回裏、二死無走者での第3打席――2ボールからの3球目だった。大竹の外角速球に「途中まで球種がわからなかったけど、真っすぐがきたのでビックリした」とバットを振り抜き、球場が総立ちの中「55号」のボールはライトへ、大歓声を上げるヤクルトファンのもとへダイブ! 球場のすべてがバレンティンを祝福!

「神宮球場の、ヤクルトファンのいるライトスタンドへ飛んでくれた。これ以上嬉しい55号はありません。身体が立ちすくむような感じを受けました」

 試合が終わり、クラブハウスへ引き上げるバレンティンに球場に残ったすべてのファンが感謝の声援を送っている。遠くからは55号を打たれた大竹(勝利投手)のヒーローインタビューが聞こえてくるのだった。

 試合後の会見でバレンティンに質問。

―― 55号を打ったときの球場の興奮を見て、1998年にマグワイアとサミー・ソーサのホームランレースを思い出しました。あなたはまだ15歳の少年でした。あの時のことは?

「覚えています。そして今、そういう質問をされて、自分がホームランレースの当事者になっていることを実感するようになりました。今までそういうことは考えたこともなかったんですが、自分が素晴らしい状況の中にいるんだなと実感するようになりました」

―― 明日からは、新記録ということでもっと注目が集まります。準備はできていますか?

「正直、55号を打ったことで今まで張り詰めていた緊張感が収まったので、明日からは平常心で挑めると思います」

 バレンティンの55号達成後、ヤフードームにいた王貞治氏は賛辞を述べたという。ただ、「王さん、そうじゃないんだ。神宮に来てくれ!」とその時、強く思った。「55」という数字は、王さんの積み重ねた偉大な数字であり、松井秀喜が「55本」を期待されて背負った輝かしい未来でもあったが、ランディ・バースやローズ、カブレラが背負わされた「哀しみ」の数字でもあるのだ。「56本」の新記録が達成された時――、王さんが、満員の観客の前でバレンティンに花束を渡し握手をする。そうすることで、バレンティンも重圧から解放される。日本の野球ファンの多くも「聖域」から解放され、「55」は普通の数字に戻れるはずなのだ。とにかく56号まであと1本!

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