バレンティン「56号」狂想曲、もうひとつの物語 (2ページ目)

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya
  • photo by Nikkan sports

 試合後の会見中、バレンティンは壁にかかる時計を何度か見やった。

―― 残り2本となった今、56本という数字は現実的になりました。記録達成の瞬間、あなたは王貞治氏に立ちあってもらうことを望みますか?

「(少し考え)僕の方からお願いすることはできないけれど、もし王さんが自分の目で見てみたいという気持ちで球場に来てくれるのなら、それは誇りですし光栄なことです」

 1998年9月。メジャーの年間本塁打記録を更新した、マーク・マグワイア(カージナルス)は神話の世界の住人にみえた。青い瞳の視線の先はどこか遠い世界を眺めているようで、会見では感情を出すことがまずなかった。打席に立った時の集中力は見ている方がへとへとになるほど凄まじかった。バットをかまえてボールを待つ姿は、ダビデ像よりも美しいと思えたのだった。

記録が近づくにつれ真っ向勝負をする投手は減り、マグワイアは失投を待ち続けた。明らかなボールが続き球場がブーイングに包まれても表情ひとつ変えることがなかった。

「この試合で打てるボールは一球しかなかった」

 そして、マグワイアはその失投を見逃さずに、球場を大歓声に変えるのだった。バレンティンとマグワイアと比較すれば、対照的なことが多い。バレンティンは「56本を打ちたい」とはっきりと答え、露骨な逃げのピッチングには感情を素直に出し、打てると判断すればどんなボール球でもバットを振り抜く。記者の前では「今はなるべく自分の感情をコントロールしようとやっています」と心情も吐露する。こんなバレンティンの人間らしさに感動をしているのだった。オランダ領の小さな島・キュラソーで生まれた29歳の野球選手が、異国の地でプロ野球の偉大な記録と戦っている。応援せずにはいられない。56号まで残り2本!

9月11日 神宮球場 ヤクルト対広島

 午後2時のヤクルトの練習。日ごとに増える報道陣がバレンティンの登場を待ちかまえる。テレビ局スタッフの手には「バレンティン55号、56号ニュース原稿案」が握られるなど、その瞬間への期待が高まってきている。開門は午後4時半。取材カメラが「4」を背負ったファンを探して走り回るが、「川端のユニフォームでゴメンね」(少年ファン4人組)など、バレンティンの「4」を見つけるのにひと苦労。意外かもしれないが、神宮で「4」のファンは簡単には見つからない。

 過熱する報道陣をヨソに、観客はまばら。バレンティンが50号を打った試合から神宮を訪れているが、「記録目前になれば超満員になるはず」との考えも打ち砕かれた。5時を過ぎても特に内野スタンドは寂しく、当日券売り場に長蛇の列ができることもない。何より大記録を前に、球場全体をつつむ"サーカスが街にきたような"非日常感がないことが不思議なのだった。

「この少なさは今年いちばんだよ。もともとヤクルトファンは少ないのに、にわかファンがこないと客は増えない。今の時間でこれだと、昨日より入らないよ。記録が生まれるんだからもっと来てほしいんだけど」

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