山﨑武司、引退。「人情派語録」で振り返る、激動の27年 (2ページ目)

  • スポルティーバ●文 text by Sportiva

 当時35歳、年齢的に引退しても不思議ではなかった。だが、そんな山﨑に新規参入の楽天から声がかかった。

「オリックスから戦力外を受けた時、引退して名古屋に帰るつもりだった。でも、現役としてやれる自信はあったし、こんな感じでプロ生活を終わらせたくなった。やれるだけのことはやりたい」

 楽天での1年目、田尾安志監督のアドバイスで打撃フォームの改造に取り組んだ山﨑はチーム最多の25本塁打を放ち、見事復活を遂げる。そして06年、山﨑の野球人生を変える大きな出来事が起きた。楽天の新監督に就任した野村克也との出会いだった。

「野球論とかミーティングとか最初はちょっと面倒臭かったけど、だんだんと自分の中で理解できると野球が楽しくなって、プレイしているとドキドキワクワクするようになってきた」

 野村監督から考える野球を学び、真剣に配球を考えるようになった。その取り組みは、すぐに結果となって表れた。07年に自己最多となる43本塁打を放ち、108打点を挙げて二冠王に輝いた。

「もう少し野村監督と早く出会っていたら、2000本も打てたかな」

 09年も39本塁打、109打点(ともにリーグ2位)の成績を残し、チーム史上初のクライマックス・シリーズ(CS)進出に貢献。「久しぶりに胴上げしたいオヤジに出会えた」と語った山﨑だったが、残念ながら実現はできなかった。そしてこの年を最後に野村監督はチームを去った。

 そして11年、かつて中日時代にともに戦った星野仙一が監督に就任した時、山﨑は「ああ、オレはこの人に葬られるんだろうな」と思ったという。事実、このシーズンの終了直前、星野監督から「来季は構想に入っていない」と告げられた。

「まだまだこのユニフォームでやりたかったけど......。残念です。でも、いい夢を見させてもらいました。間違いなく僕の野球人生で仙台に来てよかった。このご恩は一生忘れません」

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