中村紀洋、谷繁元信......それぞれの2000安打物語

  • 石塚隆●文 text by Ishizuka Takashi

 転機が訪れたのは1993年。バッテリーコーチに大矢明彦が就任したことだった。大矢は谷繁に「観察力」の大切さを教えた。ひとつの動作で相手が何を考えているのかを察知する。グラウンドに限らず、日常生活でもいろんなことを観察した。その結果、試合の展開が読めるようになり、リードは劇的に変化した。

 93年は114試合、94年は129試合の出場を果たすなど、レギュラーをほぼ手中にした。それでも試合終盤になると代えられることが多かった。その理由は、絶対的クローザー・佐々木主浩からの信頼がなかったからだ。フォークを得意とする佐々木としては、ただリードするだけでなく、絶対にワンバウンドを止めてくれる捕手が必要だった。それを知った谷繁は猛練習で佐々木の信頼を勝ち取る。98年には攻守の要として横浜ベイスターズ(当時)38年ぶりとなるリーグ優勝、日本一に貢献。自身初となるベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得し、名実ともに球界を代表する捕手へと成長を遂げた。

 その後、02年にFAで中日に移籍。初年度から24本塁打を放ち存在感をアピール。03年からは監督に就任した落合博満のもと、リーグ優勝4回、日本一1回に貢献し、常勝軍団の中核としてチームを牽引した。

 常にチームの中心として活躍してきた谷繁だが、昨年までのプロ生活24年で3割に到達したのは96年の一度しかない。それでも谷繁は言う。

「試合に出ている以上、打つことも大事だけど、僕の仕事はチームを勝利に導くことだと思っている。たとえ自分が打っても、チームが負けてしまえば意味がない」

 それゆえ、谷繁がこだわったのは試合に出続けることだった。精神的、肉体的に過酷なポジションで、ここまで長く現役を続けるのは並大抵なことではない。さすがの谷繁も幾度となくケガと闘い、時には長期離脱を余儀なくされることもあった。それでも、96年以降は毎年100試合以上の出場を果たしている。捕手として3人目の記録達成を問われた谷繁は誇らしい表情を浮かべ、こう語った。

「過去に野村さん、古田さんのふたりしかいない。3人目ということを考えると、よくやったんじゃないかな。常に7、8番を打っていて、クリーンアップを打ったわけじゃなく、コツコツやった積み重ねだと思う」

 勝つことだけにこだわってきた谷繁にとって、2000本安打はおまけともいえる。だが、四半世紀かかっての大記録達成はそれだけに重い。

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