【WBC】3連覇ならず。準決勝で露呈した山本采配の限界 (3ページ目)

  • 柳川悠二●文 text by Yanagawa Yuji
  • photo by AFLO

 だが、その一方で指揮官が采配によって試合を“動かす”シーンは少なく、後手を踏むことも多かった。例えば、プエルトリコ戦の7回表、能見篤史が先頭打者にヒットを許した場面だ。能見は2次ラウンドの台湾戦でセットポジション時の制球に大きな不安を残していた。準決勝終盤の1点も許されない状況で、山本監督は間を取ることもなく能見を続投させ、決定的な2点本塁打を喫してしまった。せめて東尾修投手総合コーチをマウンドにいかせるか、思い切って抑えの牧田和久を投入してチームの士気を高める方法もあったかもしれない。

 相手の流れを断ち切りたい時に積極的な仕掛けはなく、選手個々の力に頼ることしかできなかった。それは攻撃でも同じで、その最たるシーンがプエルトリコ戦のダブルスチール失敗だった。

 決勝ラウンド進出を決めた日、阿部は「浩二さんを男にしたい」と話していた。準決勝敗退後も、多くの選手が「良いチームだった」と振り返り、37歳の井端ですら4年後の第4回大会でのリベンジを誓っていた。

 会場の「AT&Tパーク」をあとにする時、前回大会も経験している与田剛投手コーチはこんな言葉を残した。

「(優勝した第2回大会との差は)力でしょう。今回の日本代表メンバーの力が他国のメンバーに敵わなかった。それだけです」

 チーム発足以来、山本監督が目標にしていた決勝ラウンド進出は果たしたのだから、最低限のノルマはクリアしたという見方もできよう。しかし誰もが認めた“いいチーム”を“勝てるチーム”にするための必要な一手を、指揮官である山本監督が講じることができなかったのも事実だ。試合後の会見で山本監督は、次のように言った。

「この歳になって、あらためて勝負の厳しさを味わえましたし、ユニフォームを着るのは燃えるものがあった」

 だが、コーチとして参画した北京五輪以来、現場から遠ざかった5年近い日々はあまりにも長く、侍ジャパンの指揮官として勝負勘を取り戻すにはあまりにも短すぎた。

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